よくわかる現代魔法6 Firefox! 桜坂 洋 [#表紙(img/yg6f_0000a.jpg)] [#挿絵(img/yg6f_0000b.jpg)] [#挿絵(img/yg6f_0000c.jpg)] よくわかる現代魔法6 Firefox! contents  prologue  第1章 寄木細工の卵  第2章 輝くもの、透明なるもの  第3章 神の運び手  第4章 猛獣狩り  第5章 未知なる世界  第6章 ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために……  第7章 火狐  epilogue   あとがき [#挿絵(img/yg6f_0008-9.jpg)] [#扉(img/yg6f_0013.jpg)]   prologue 「世界を炎に包まねばならない」  魔女は言った。  魔女の半身は銀色の髪に包まれていた。魔女の指は銀色の杖《つえ》を握っていた。二体の蛇《へび》が互いに絡《から》みあった複雑な意匠《いしょう》の杖で、魔女の髪と同じ硬質な光を散らしていた。杖の呼び名はケリュケイオン。ザルツブルグの戦場で六百六十六の強者《つわもの》の血を吸い育ったナナカマドを憑代《よりしろ》に、六百六十六人の司祭が六百六十六日間祈りを捧《ささ》げて祝福した銀に浸《ひた》してつくられた魔杖《まじょう》だった。  魔女の瞳《ひとみ》は紫だ。その中に人の形をした火柱が揺らいでいる気がして、こよみは覗《のぞ》き込んでみた。魔女が眉《まゆ》をひそめた。目の中の像が歪《ゆが》む。気のせいだった。それは、通りの向かい側にあるビルにかかっているオレンジ色の看板だった。  ここは、中世でもファンタジー世界でもなく電子機器が溢《あふれ》れる現代の街だ。アスファルト舗装の道路を行き交っているのは空飛ぶじゅうたんやかぼちゃの馬車ではなく内燃機関を動力源にした自動車だし、空中をびゅんびゅん飛んでいるのは精霊《せいれい》や呪文《じゅもん》ではなくケータイやテレビやタクシー無線が発する不可視の電波だった。森下《もりした》こよみは、そんな場所で弓子《ゆみこ》と待ち合わせをしていたはずであり、そもそもこよみはごく普通の女子高校生に多少オマケをつけたくらいの存在で、いきなり世界とか大きなことを言われても困ってしまうわけで、なのに目の前にいる弓子の中身は弓子ではなく伝説の魔女になっていてなんだかおそろしい言葉を口にしたりするのだった。  こよみは弓子に聞いた。 「ええと……その包むっていうのは、たぶんよくないことなんだよね? ふろしきみたいなので包むんじゃなくて、せんそうとかききんとかさいがいとかを起こすってことだよね」  魔女である弓子がうなずく。 「そんなのだめだよう」 「余儀《よぎ》はない。わたしは戦わねばならない」 「戦うって誰と。弓子ちゃんに敵なんていないよ」  魔女が嗤《わら》う。その口許《くちもと》はさみしげだ。 「顕然《けんぜん》たる敵がいれは、その者を屠《ほふ》りわが戦いも終わったのやもしれぬ。だが、魔女を火焙《ひあぶ》りにした者もその郎党《ろうとう》も子も孫も眷属《けんぞく》は皆|往昔《おうせき》に死に絶えた。残存せしは、癒《いや》されぬ恐怖を叫びつづける魔女のライブラリだけだ。だからわたしは、世界を炎に包まねばならない」 「なんで。なんで。よしてよう。お家《うち》に帰ろう、弓子ちゃん。ね?」 「森下こよみ……|一ノ瀬《いちのせ》弓子クリスティーナの友。おまえを巻き込みたくはない。ここから去るがいい」 「こよみ! どきなさい!」  叫び声とともに光り輝く剣が降ってきたのはそのときだ。脈動する光線がいく筋となく地面に突き立ち、穴を穿《うが》ってアスファルトの欠片《かけら》を散らす。煙が湧きあがる。がががっ、と工事現場の騒音を十倍くらいにした音がした。石油くさいにおいの風が頬《ほお》をなであげ、首筋にまとわりついて背後を駆け抜けていく。  魔女はゆっくりと顔をあげ天空を見やる。灰と群青《ぐんじょう》を混ぜ合わせた夕方の空に、オレンジ色に染まった雲が浮かんでいた。その中に、きらりと光る物体があった。ビルとビルのあいだに、平べったくて黒い石が浮かんでいるのだった。  ここは秋葉原《あきはばら》。家電量販店の一階に入っているドーナツショップの前だった。道往く人々が足を止め、銀色の髪の少女とその足元へ視線を向けている。道路を流れる車の騒音で人々のざわめきは聞こえない。少女の足元にあるのは大きなクレーターだ。まるで、専用のスプーンでアイスクリームをすくったように、ドーナツショップ前の歩道がぽっかりと抉《えぐ》れている。何十という魔法の剣が上空から飛来し、地面に穴を開けたことを人々は知らない。  魔女とこよみの視線が一瞬だけ絡まった。瞳が映しだしているのは砕けたアスファルトがつくる煙だけだった。表情はよくわからない。それは、決意かもしれないし、悲しみかもしれない。ちいさくこよみにうなずき、魔女は空へと飛びあがる。 「弓子ちゃん!」  こよみは叫んだ。その体を、聡史郎《そうしろう》が後ろから羽交《はが》い締《じ》めにする。 「それ以上進むな。危ないだろうが!」 「離して。だって弓子ちゃんが……弓子ちゃん! 離してってば。もう! あなたなんか、があんとやってやるんだから」 「いや、それは困るな」  聡史郎が手を離す。 「あ、そうなんだ」 「うん。実は困るんだ。金《かな》だらいは痛いからな」 「そうだよね。ごめんなさい」  ぺこりと頭を下げた。  さすがの聡史郎もがあんとやられるのは内心嫌だったらしい。いままでは痩《や》せ我慢《がまん》をしていたのだという。それもそのはずだ。あんなに硬くて大きなものが予告もなしに頭へと降ってきたら、こよみなどは鞭打《むちう》ち症《しょう》になってしまうかもしれない。心なしか聡吏郎の背もちぢんでいるような気がした。四十センチ以上あるはずの背丈の差がそれほど感じられない。いままでごちんごちんたらいをぶつけたせいだ。なかなか強いぞたらい。  あとで美鎖から聞いた話だと、このとき美鎖と弓子は空中で魔法の戦いをしていたらしかった。さっき雲を背景にして見えた黒い石は、美鎖が普段首から下げている魔法の|首飾り《アミュレット》だったのだ。ゴーストスクリプトの魔法でアミュレットに乗り移ったかなんだかした美鎖は、人間が目で追うことのできないスピードで秋葉原の街中を飛び回り、魔女の弓子を相手に致死を与えるコードを投げつけ合っていたという。  でも、こよみは空が飛べないのだった。  森下こよみは、現代魔法の第一人者である姉原《あねはら》美鎖から魔法を習っている。けれど、使えるのはただひとつ金だらいを召喚《しょうかん》する魔法だけで、まあたらいにもバリエーションがあって、銅だったり鋼《はがね》だったり銀だったり、空《から》だったり水が入っていたりそれなりに大事な個性というものがそれぞれあったりするのだが、とにかく、いまのところ、魔法はひとつしか使えない。ホウキにまたがり空を自由に駆け巡るコードは夢のまた夢である。  こよみは、はあとため息をついた。  大好きな美鎖と大好きな弓子が危険なことをしているというのに、説得することもできずこよみは地べたで見上げていることしかできないのだから……。 「あたしもホウキで空を飛べたらなあ」 「バカかおまえは」  聡史郎が吐き捨てる。こよみは、せいいっぱい背伸びして、ちょっと背の低くなった気のする聡史郎を睨《にら》みつけた。 「飛べるもん。魔法で」 「また魔法かよ。勘弁《かんべん》してくれまったく」 「そんなこと言っても魔法はあるんですよーだ。飛行機がなくても空だって飛べるんだもん。あ、あたしはちょっと使えないかもしれないけど……」  やれやれ困ったお子さんだというふうに聡史郎は肩をすくめる。仕草が外人っぽくて憎たらしい。こよみはしかめっつらで対抗してやった。だけれど、聡史郎の口は、意外な言葉を紡《つむ》いだのだった。 「空の飛びかたなら前に教えてやったじゃないか。飛行機なんかなくてもラクショーだ。おまえは背だけじゃなくて記憶力も足りないんだな」 「え? そうだっけ? また、あたし、科学で解決できることは科学でやれーとか、ライト兄弟を愚弄《ぐろう》してるーとか言われるのかと思ったんだけど」 「空を飛ぶ魔法の秘訣はただひとつだ。右足をあげて、それが地面につかないうちに左足を持ち上げる。一見単純ながら、これこそが極意だ。はじめは難しいが慣れればたいしたことはない。すばやくかつ正確に、左右の足をより高くあげるようにすればいいんだ。十八世紀初頭のイギリスでは、この方法で実際に空を飛んだ人間が何人もいたって言っただろ」 「そう……なのかな?」  聡史郎が重々しくうなずく。表情は真剣だ。だんだんとこよみもそんな気がしてきた。  この空の飛びかたは、聡史郎に教わったのではなく、ゴーストスクリプトを覗き見する魔法で覗いた過去の世界にいた聡史郎少年の言葉だった気がする。いまの聡史郎がそのことを憶《おぼ》えているはずはないと思うのだが、まあ、そういうこともあるのかもしれない。深く考えないことにする。  教師の顔で立つ聡史郎の前で、こよみは、そうっと、右足をあげてみた。そのままゆっくりと右足に体重をかける。ふかふかの羽布団《はねぶとん》を踏んでいるときの感触がした。わずかに空気にめり込んだけれど、ローファーに包まれた右足が地面に墜落《ついらく》する気配はない。空気のかたまりがしっかりとこよみの足を握りしめている。 「行ってこいよ」  聡史郎の言葉とともに、左足を持ちあげ、こよみは宙を駆けだした。  練習もなしに空を飛べるようになるなんて、ひょっとするとこれは、人類の神秘とか大脳に隠された最後の力とかいうやつなのかもしれない。魔法はやっぱりすごい。こよみは思ったが、口に出して言うと誰かに怒られそうなのでやめておくことにする。  魔法は、使い勝手の悪い道具だ。万能ではないし、他のものごとと同じく使いこなすには長期にわたる地道な訓練を要する。親から受け継いだDNAや持って生まれた才能だけでなんとかなるような代物《しろもの》ではない。そんなことはこよみだって百も承知である。  でも、コンピューターが得意な嘉穂《かほ》や高名な魔法使いを曾祖父《そうそふ》に持つ弓子のようにはいかなくても、こよみだってこよみなりに魔法使いになりたくて日々がんばっているのだから、おひつじ座のあなたのラッキーデーくらいは体の奥にあるかもしれないなんとかスイッチのリミッターが急に外れて高度な魔法が使えるようになったって罰《ばち》は当たらないのではないだろうか。 [#挿絵(img/yg6f_0021.jpg)]  森下こよみの背は百四十六センチで、頭の中身もその周囲にある顔の造型も平凡で、私服だと小学生にまちがわれて、なにもないところでもよく転ぶ。そういうことを思い出すと悲しくなるのでなるべく考えないようにしている毎日なのだけれど、本日このときばかりはどうも事情が異なるらしい。なんたって、年に一度のラッキーデーなのだから。うん。ぜったいそうだ。そう決めた。秋葉原の大気を切り裂いて駆けながらこよみは思った。  二百メートル先の信号の上で美鎖と弓子が対峙《たいじ》している。両脚をぐるぐると回転させてこよみはふたりの元へたどり着く。そして、アミュレットがつくりだした幻影《げんえい》である美鎖に向かって言った。 「美鎖さん、弓子ちゃんと戦うなんてだめですよ!」 「あらそう」  美鎖は拍子抜《ひょうしぬ》けした顔だ。 「だったらあなたにまかせるわ、こよみ。わたしは眠いから帰るわね」 「はい。あたし、がんばります!」  大きなあくびをすると、美鎖は銀座《ぎんざ》方面へと飛んでいった。  さきほどまで弓子であり魔女であったものにこよみは向き直る。それ《ヽヽ》は、タコを思わせる魔物に変化して宙に浮かんでいる。ちーっす、いまさっき深海からやってきましたみたいな顔をしているのに空を飛ぶなんて反則だ。ちなみに、こよみが苦手なのは足がまったくないものと足がたくさんあるものなので、タコやイカなどはたいへん微妙な苦手距離に位置していることになる。  下を見ると、交差点の横で点ほどの大きさの弓子が手を振っていた。わたくしはもう関係なくなったのでがんばってくださいまし、とかなんとか言っているっぽい。エキストラになった弓子はずいぶんといい加減だ。ならばしょうがない。こよみががあんとやるしかないだろう。なに、いまのこよみならやってやれないことはない。  いつもは頼みごとしかしない神さまだけど、しかもなにも聞いてくれないいじわるさんなのだけれど、きょうのこよみには必要ない気がした。というか、もしかしたら、当の神さまがラスボスとして現れたって倒せちゃうかもしれない。それほどこよみは絶好調だった。 「神さまを殺すのはチェーンソー、もしくは黄金の右足で。フードプロセッサーなんかもわりかし強い」  横を見ると、ミニチュアサイズの嘉穂が肩口に乗っていた。本当の嘉穂は怪我をした美鎖につきそっているので、ここに来てくれたのはぬいぐるみ製の嘉穂のようだった。ちいさな嘉穂は肌も髪もフェルト地でできていて、顔にはデフォルメされた目が刺繍《ししゅう》してある。目元に並ぶほくろがプリティーかつ匠《たくみ》の業《わざ》だ。縫《ぬ》い目で書いてあるだけの指で、ミニチュアの嘉穂はこよみの服にしっかりとしがみついている。  こよみは嘉穂に聞いた。 「ふ。ふーどぶろせっさー? なんで?」 「わからないならわからないでいい」  ぬいぐるみでも嘉穂は説明不足らしい。まあいい。タコの怪物さん、ごめんなさい。恨みはないけれどせかいへいわのために退治されてください。こよみは腕に力を込める。コードだかエネルギーだか魔法の力だかよくわからないものが、よくわからないまま腕の中を流れ、てのひらに集まっていくのがわかった。 「ちょっと待った、森下」 「え、なに。嘉穂ちゃん。急に言っても魔法は止められないよ」 「そういうことじゃない。必殺技を放つなら技の名前を叫ばないと」  こよみは右の手に視線を落とす。てのひらを中心に渦《うず》を巻くよくわからないものは、サッカーボール大の光球に成長している。 「でもでも、ひっさつわざの名前なんてないようっ」 「これは決まりだから。どんなに強い魔法でも、名前がついていなければラスボスは倒せない。なんなら一ノ瀬の呪文を拝借《はいしゃく》して、たらいと化せ我がコード、とかでもいい」 「そんなのやだよう」 「ならば考えれ」  術者が一定の言葉——すなわち呪文を発することに、精神を高揚《こうよう》させ身体《からだ》をコードが流れやすくする以上の効果はない。魔法をこの世にもたらすのは言葉ではなくコードであり、人間の筋肉|繊維《せんい》を流れようとコンピューターの基板上《きばんじょう》を流れようとコードは電気信号だからである。  攻撃魔法を放つとき、古典魔法使いである一ノ瀬弓子クリスティーナは「剣《つるぎ》と化せ我がコード」と呪文を唱える。剣というのは炎の象徴なのだと魔法の本に書いてあった。この場合の魔法の本とは、美鎖がくれたプログラミングの教本ではなく、いわゆる本当の魔法の本のことである。むかしむかし、土を混ぜてちちんぷいとやると金ができると妄想《もうそう》されていた時代に記されたものだ。ちなみに、こよみが召喚魔法で呼び出すたらいは器《うつわ》の一種であり、杯、すなわち水の象徴ということになる。水は嫌いじゃないけれど、あんまり攻撃に向いているようにも思えない。だいたい、たらいと化せ我がコードという言葉はたいへんに格好が悪い気がする。剣だからカッコいいのだ。  右手の光球はいまや成長し、脈打ち、肘《ひじ》までを飲み込もうとしていた。よくわからないけれどすごいパワーだ。この魔法の弾《たま》にこよみの思うとおりの威力があるならば、時空の支配者だって倒せそうだというのに……。名前がなくて困るなんて、いざというときのために前もって考えておけばよかった。 「せっかく強くなったのにい!」  こよみは叫んだ。肩の上の嘉穂は冷静だ。 「それを言うなら、俺TUEEE! かと。ちなみに、『つえー』はローマ字を意識して発音すると雰囲気《ふんいき》が出ていい」 「なんで?」 「様式美かと思われ」 「そうなんだ。だったら大事にしないとね」 「じゃあ、必殺技の名前は俺TUEEE! ということで」 「えええ、それもかっこ悪いよう」 「ぐずぐずしていると敵が」  縫い目の指で嘉穂は上空を示す。タコの怪物がうねうねと蠢《うごめ》きながら天の彼方《かなた》へ飛び去ろうとしている。八本だった脚はずいぶんと数が増え、タコというよりはスパゲッティーの塊《かたまり》に見えなくもない。映画のエンディングテーマみたいなBGMがどこかで流れていた。右手の光球はぱちぱちと爆《は》ぜ、いまにも爆発しそうだ。 「待って。行かないでよう!」 「だいじょうぶ、森下。あたしも一緒に言う。いい? せーの——」  こよみは右手を振りあげ、思い切り息を吸い込んだ。 [#扉(img/yg6f_0027.jpg)]   第1章 寄木細工の卵 [Mosaic]  ごがん、という大きな音を聞いて森下《もりした》こよみは目を醒《さ》ました。  パジャマが汗で肌にはりついていた。胸部平原地帯付近の布にしわが寄り、地肌が透《す》けて見えた。夏だというのに首筋にかすかな肌寒さがあった。なんだか、ひどい夢を見ていた気がした。  枕元《まくらもと》には、数ページ読んだだけで眠りに落ちてしまったらしい『よくわかるアセンブラ』という魔法の教本が置いてある。もう何度も読み返しているのだけれど、書いてあるのはナイトメアみたいな奇怪な呪文群《じゅもんぐん》で、いまだにさっぱり内容がわからない。こんな本を読みながら寝てしまったせいで夢魔がよくない夢を配達にきたのかもしれない。  こよみは、大きく、息をした。  以前、美鎖《みさ》に説明してもらったことがある。夢というのは寝ているあいだに脳が記億の整理するから見るもので、起きているときにその整理を強制的にやってしまうのがガーベージコレクトの魔法だという話だ。つまりどういうことかというと、こよみの夢に出てくる情報は全部こよみが知っていることのはずなのだった。だけれど、さっきまで体験していた夢は、こよみが見たことも聞いたこともないような知識がたくさん詰まっていた気がする。夢なのでよくおぼえていないけれど。  魔女のライブラリに乗っ取られた弓子《ゆみこ》と美鎖が秋葉原《あきはばら》で騒動を起こしたのは十日ほど前のことだ。こよみの記憶もまだ鮮明で、細部を忘れたり、本当はなかったことを捏造《ねつぞう》したりするには早すぎる。すくなくともタコの怪物は現実には登場しなかったし、嘉穂《かほ》はぬいぐるみじゃなかったし、こよみは空を飛んでいないし、それどころか、いつものように役に立たずおろおろしているうちにいつのまにか一件落着してしまったのだった。  ベッドの横には、赤銅色《しゃくどう》の金属製品が鎮座《ちんざ》していた。直径一メートルを優に越える円筒形の製品だ。色・形ともにもうしぶんない。小柄なこよみだったら朝の行水くらいはできてしまいそうな一品である。  普通の家に住む普通の女の子のべッドの横に、この物体は、あまり、置いてあったりはしない。  背を起こし、こよみはベッドに座り直した。  睡眠中に魔法発動コードを自主的に組んだのか。それともなにかのコードを反射的に変換したのか。寝ているあいだに魔法攻撃を受けて無意識のうちに魔法を使った……とか想像するととてもカッコ良いけれど、一般市民のこよみに魔法を使う物好きな人がいるとも思えないから、自分でコードを一から組んだと考えるのが妥当《だとう》なところだろう。  こういうのを、夢遊病《むゆうびょう》ならぬ夢遊魔法とでもいうのだろうか。だとしたらハタ迷惑なかんじだ。しかも、森下こよみが使える魔法はひとつだけ。修学旅行かなにかで、寝ているクラスメイトの頭上に|これ《ヽヽ》が突然出現したら大騒ぎになることまちがいなしだった。 「たらいなんだよなあ」  カーテンの隙間《すきま》から射《さ》す朝の陽射《ひざ》しに、銅製の金《かな》だらいが、ぺかりんと赤く輝いていた。           *  その日の午後——。  姉原邸《あねはらてい》は、いつものように、そこだけ幽霊屋敷のたたずまいで銀座《ぎんざ》の裏通りに建っていた。何度も来てこよみもだいぶ慣れたけれど、どれほどお陽さまが天高く輝いていようと、どれほどさわやかな涼風が通りに流れていようと、明治《めいじ》の時代に建築された洋館の周囲は、じめっと肌にまとわりつく多湿の空気がたちこめている。そのうえ、見上げる空はおどろおどろしい雲に覆《おお》われているのだった。  があ。 「こんにちは。カラスさん」  洋館のてっぺんから威嚇《いかく》してきたカラスに声をかけ、森下こよみは、血の色の錆《さび》が浮いた屋敷の門をくぐる。  姉原邸の玄関は、大小さまざまのダンボール箱たちに占領されていた。  天井近くまで箱が積みあがり人ひとりすり抜けるのがやっとになってしまった玄関の中央で、エプロン姿の聡史郎《そうしろう》がしかめっつらをしている。先に着いたらしい嘉穂《かほ》は、頑丈《がんじょう》そうな木箱の端っこにちょこんと腰かけ、ちいさなキーボードのついたケータイをぽちぽちと打っていた。 「ここ、こんにち……ごめんなさい。おじゃまします」  こよみは、虫の居所の悪そうな聡史郎の目をできるだけ見ないように、できれば声も届かなければいいなと思いつつ挨拶《あいさつ》をした。嘉穂が、ケータイの画面に目を向けたまま手をあげて応える。  聡史郎は腕を組んでいる。左右の眉《まゆ》のあいだに刻まれた苦悩がとてもとても深そうだ。こよみは、できるだけ聡史郎に聞こえないように、もう一度だけ声をかけてみた。 「すごい荷物だね」 「ちっ」  舌打ちしたようだ。嘉穂のほうを見ると、ネットジャンキーのあっしにリアルワールドのできごとは関係ありませんどうか空気だと思ってやってくださいという顔でケータイを操作している。  こよみは、聡史郎にあやまることにした。 「ごめんなさい!」 「おまえが悪いんじゃないからべつにあやまらなくていい」 「はい。ごめ……じゃなかった。はい、それもそうだね」  聡史郎は深いため息をついた。ダンボール渓谷《けいこく》の底から高い天井を見上げ、酸素の薄さを嘆《なげ》くように息を吸い、もう一度吐きだした。 「とんでもない量の荷物だろ?」 「そ、そうだね」 「どっかの国の沿岸で起きていた海賊《かいぞく》騒動が一段落して、滞《とどこお》ってた船便がまとめて日本に届いたらしいんだよ。そしたらイキナリこれだ。勘弁《かんべん》してもらいたいよな」 「もしかして、これ……全部|美鎖《みさ》さんの?」 「もしかしなくてもそうだ! 四トントラックの荷台を丸ごと占領する量の通販を頼む人間が姉さん以外にいったい世界のどこにいるってんだ。正気の沙汰《さた》じゃねえよ。海の向こうからでもクリック一発でなんでも届いちまうからって、まったく姉さんときたら。人には限度ってものがあるだろうに」 「く、クリック一発でこんなに届くんだ。すごいね」 「やかましい。おまえは感心するところがまちがってるぞ。こんなのはちっともすごくない。世界に七十億も人間がいりゃ、どんなにロクでもない商品でも千や二千は簡単に売れちまう。ここにあるのはその典型例だ。ネットがさらけだした人類のバカさ加減の見本市なんだよ。おまえはぜったい真似《まね》すんなよ」 「あう、あう……」 「したくてもフツーの神経ではできないかと」  ケータイを握った姿勢のまま、玄関の隅で、嘉穂がぼそりとつぶやいた。  美鎖と聡史郎の姉弟《きょうだい》が寝起きする姉原邸は百年前は魔法学校として使われていたという話だった。だから、正面玄関も廊下《ろうか》も一般家庭とは比較にならないくらい広々としているし、天井も高い。正確に測《はか》ったことはないけれど、玄関ひとつをとっても、こよみの自室よりも広いんじゃないかと思う。美鎖は、その空間を埋めつくす量のモノを通販で買いこんだらしい。  こよみは、もう一度、ダンボールがつくるふたつの断崖絶壁《だんがいぜっぺき》を見渡してみた。積みあがった箱たちは色とりどりで、アルファベットとかアラビア文字とか、その他よくわからない文字とかがたくさんプリントしてある。聡史郎には悪いけれど、ちょっぴりきれいで、わくわくするような光景だ。  その中にひとつだけ、変な格好をした箱をこよみは見つけた。  透明なテープでぐるぐる巻きにされた箱の横っ腹から、半球状の物体がとび出しているのだ。しかも球体の表面にはうにょうにょとまだら模様のなにかが蠢《うごめ》いていて、おまけに全体的に見れば球体は透けているようでもある。普段は海中をただよっているクラゲさんが、きょうだけ気まぐれを起こして空を飛んでいるような不思議な光景だった。  こよみは、木箱に腰かける友人の肩をつつき、うにょうにょの箱を指さした。 「嘉穂ちゃんあれ、あの箱の横からとび出してるの、なんだと思う?」 「どの箱?」 「ええと、なんか球体っていうか、クラゲの頭っていうか、横倒しにしたダチョウの卵みたいなのがとび出してる箱。うねうねーって模様が動いてて。こういう絵、なんっていうんだっけ。前に嘉穂ちゃんに見せてもらった気がするんだけど……ネルソン・マなんとか提督《ていとく》みたいな」 「ネルソン・マンデラはノーベル平和賞をうけた南アフリカ共和国の元大統領だ。提督じゃないぞ。だいたい、なんでそれが模様と関係あるんだ?」  聡史郎が言った。中途半端な長さの髪に指をからませ、嘉穂は二度まばたきする。 「……マンデルブロ集合?」 「そう。それ!」 「よく通じるな」 「えへへへへへ」 「誉《ほ》めたんじゃねえ。喜ぶな」 「ところで森下、そのうにょうにょの球体ってのはあたしにはたぶん見えてないから」 「ええー、そうなの?」 「いつものことかと」  嘉穂は涼しい顔だ。彼女に見えていないということは、当然のことながら聡史郎にも見えていないのだろう。こよみにはたしかにそこにあるように思えるのに、わかってもらえないというのはもどかしい。  そうこうしているあいだも、半透明の球体はうにょうにょ運動をつづけている。 「あら、いらっしゃい。ふたりともずいぶん早かったのね」  謎《なぞ》の箱をどう説明したものかとこよみが迷っていると、ダンボールの谷の奥からのんびりとした声が聞こえてきた。つづいて、谷間をすり抜け、長身の女性の姿が現れる。  寝起きらしい美鎖は、ぼさぼさの黒髪と、白いシャツと、シャツの下にうっすらと透けて見えるパンツに身を包んでいた。白と黒のたった二色だけを使って描かれたような女性だ。ダンボールの谷にある物体は、どれも、年数を経《へ》た木製テーブルのようにくすんだ色になって見えているというのに、彼女は色というものを感じさせない。油の中に落としこんだ水滴のように、天然色が溢《あふ》れる世界にいても、美鎖という女性はそこだけモノトーンの世界を引きずっていた。 「ちっとも早くねえよ。もう午後だ。それとパンツで歩くな」  弟のつっこみに答える代わりに、美鎖は大きなあくびをする。聡史郎の眉間《みけん》の刻印がいっそう深くなった。 「やくたいもないものを大量に買いこみやがって。どうすんだよ、こんなにたくさんのダンボール」 「いいじゃない。空《あ》いてる部屋はたくさんあるんだから」 「ちっともよくない。ここは歴《れっき》とした人間が住む家で、埠頭《ふとう》のそばにある倉庫じゃねえんだ。なんでもかんでも買うからこういうことになる。ちょっと有名なブロガーが誉めたらネズミのしっぽだって姉さんは欲しくなっちまうんだから」 「そういう怪しげなグッズとか魔法のアイテムとか、わたし好きなのよう」 「あのあの……美鎖さんが買うってことは、もしかして、そういう魔法のアイテムって効くんですか? 一週間で背がグングン伸びる、とか、ピラミッドパワーで勉強がはかどる、とか」 「通販のインチキグッズで背が伸びるわけねえだろうが。バカバカしい」 「ええー、でもでも、まんがいちってこともあるかもしれないし」 「ねえよ」  美鎖はくすりと笑ったようだ。 「いままで二千個くらい買ったけど、本当に効果があったのはひとつだけね。それも、恋愛|成就《じょうじゅ》のお守りのはずがヘビ寄せのコードだったし……巧妙《こうみょう》な宣伝文句に騙《だます》されちゃだめよ」 「姉さんだって騙されてんじゃねえか」  聡史郎が吐き捨てる。 「いいのよう。わたしは結果がわかってて買ってるんだから。そこにボタンがあるからクリックするの。通販はロマンなのよ。だから、ネットでポチっとして、品物が家に届くまでが通販。山登りと一緒ね」 「登山家が聞いたら憤死《ふんし》するぞ」 「じゃあ、やっぱりにせものなんですね」 「そうね。わたしが本気でマジックアイテムつくったら、原価だって百万や二百万じゃきかないもの。せいぜい数十ドルで通販できるようなものじゃないわ」 「よしてくれ。おれのまわりでマジックアイテムをつくるとか言うな」 「それがわたしの仕事なんだからしょうがないじゃない」 「だから魔法なんて仕事はこの世に存在しねえっての」 「あるよう」  こよみは抗議する。 「ねえの! そういうバカ話は、おまえの頭にあるお花畑の中だけにしとけってんだ。おまえらと話してると耳がおかしくなりそうだ。おれはこれから買い物に行くからな。帰ってくるまでに、このガラクタの山、真ん中をまともに歩けるくらいにはしとけよな。あと、ダンボール箱は可燃ゴミにするなよ。資源ゴミに分別すること」 「わかってるわよお」 「それと、ダンボールを開けるときはちゃんと軍手をするんだぞ」  言うだけ言うって、聡史郎は、水色のエプロンをつけたまま玄関から出ていってしまった。あとには、こよみと、美鎖と、揉《も》め事《ごと》には関係ないッスという顔でケータイを打っている嘉穂の三人が残された。  両開きのドアが重々しい音をたてて閉まると姉原邸の玄関は静寂に包まれた。となりで立っている美鎖の鼓動音《こどうおん》が聞こえそうなくらい、静かな空間だった。ダンボール紙でできた壁が音という音を呑《の》み込んでしまっているのだ。かすかに湿っぽいほこりなんかもたちこめている気がする。学校の図書館のいちばん奥にある誰も来ない場所と同じ匂いだ。  こよみは、思いきって、美鎖に聞いてみることにした。 「あれなんですけど……いったいなんですか?」  こよみが指さしたのは、さきほど見つけた不思議なダンボール箱である。半透明の球体はいまも継続して蠢いている。眼鏡《めがね》の奥の目をじいいっと細め、美鎖は球体のとび出した箱を見つめた。近視の人が遠くのものを見るときの目だ。嘉穂には見えていないうにょうにょの球体が魔法使いである美鎖には見えているらしい。 「ここから見ただけじゃわかんないわねえ。|異世界の魔物《デーモン》……っぽいけど、魅了《みりょう》のコードも混じってるような気もするし、そうじゃない気もするし」  美鎖は、紙製の渓谷から小ぶりの箱をそっと抜き出した。そのまま、箱の上面に貼《は》ってある英語のシートをしげしげと眺めている。 「もしかして、二千分の一の確率で当たった本物のマジックアイテムってやつですか?」 「魔法が関係してるのはまちがいないと思うけど……おかしいな。発送元に見覚えがないわね。これ、本当にわたしが注文したのかしら」  そう言って、美鎖は透明なテープをばりばりと引きむしる。箱を開いた。  箱の中には、発泡《はっぽう》スチロール製のクッション材に埋まるようにして、ぴかぴかのケータイと、ケータイの何倍もの体積がある黒いバッテリーパックが入っていた。ふたつの物体は灰色のコードで繋がっていて、おまけにケータイにはなぜか電源が入っている。ちいさな画面にかわいらしい卵がひとつ表示されているのが見てとれた。液晶《えきしょう》に描かれた卵は、ダンボールの箱からはみだした半透明の球体とまったく同じ形をして、まったく同じ模様を備えていた。マンデルブロなんとかとかいう奇怪な絵柄が、同期をとりながらうにょうにょと蠢いているのだった。  箱とその中にある透明な卵に無造作に手をつっこみ、美鎖は、折りたたまれた一枚の紙を引っぱりだした。なにやら英語がたくさん書いてある難しそうなプリントである。  美鎖は文章を読んでいるようだ。こよみの師匠《ししょう》である彼女は、どうやら英語の呪文《じゅもん》も解読できるらしい。英語ならこよみも学校で習ってはいるし、アセンブラの呪文や数学の呪文にくらべればだいぶ得意なほうだけれど、全体的に見ればやっぱり苦手の部類に入る。 「まいったな。断ったのに勝手に送ってきちゃったのね」  乱れた髪を指でくしけずり、美鎖はぽりぽりと頭を掻《か》いた。 「なにを断ったんですか?」 「米国の株式市場を荒らしてるグレムリンをケータイに閉じ込めることに成功したから、なんとか処理して欲しいってメールが来たのよ。そんなことできるわけないんだけど、提示された金額はけっこう臭かったのよね……」 「それなのに、なんで断っちゃったんです?」 「相手があんまり、ね。政府関連とかそういうのとかかわるとロクなことになりそうもないのよね。それも相手はアメリカ合衆国でしょ。ある日突然、覆面《ふくめん》を被《かぶ》った特殊部隊が窓からリビングに突入してきたら嫌じゃない?」  たしかにそれは、とてもとても怖そうだ。 「現代魔法って、海の向こうにもあるんですね」 「もちろん。現代魔法は日本固有のものってわけじゃないわ。世界中にあるわよ」  コンピューターを使用する現代魔法に関して世界最先端の場所に美鎖自身はいるけれど、古典的な魔法に対する固定観念が薄い分だけ、日本や欧州より米国のほうが魔法発動コードに関する研究は進んでいるだろうというのが美鎖の主張だった。  そこにコンピューターがあって、電気が通っていて、動作するプログラムがあって、コードの原理さえ理解できていればどこの誰でも簡単に実現できるのが現代魔法というものである。場所が日本である必要はない。 [#挿絵(img/yg6f_0041.jpg)]  実体経済に関して想定外の挙動をするプログラムに関する研究チームを政府系シンクタンクで立ちあげるから加わらないかと美鎖は誘われたこともあるらしい。日本では、『クリスマスショッパー事件』で煮え湯を飲まされた警察がハイテク犯罪防止にようやく重い腰をあげた頃のことだそうだ。  ちいさな箱の上で、卵の立体映像がうにょうにょと模様を複雑に変化させていた。半透明の卵越しに、美鎖の胸の半球が透けて見える。 「これ、すごいなあ……あやや、だめだめ。気をつけなきゃ!」  無意識のうちにこよみは箱に手を出しそうになり、直前で思いとどまって右手を左手でつかんで止めることに成功した。  魔法に関《かか》わる現象に不用意に手を出すのはとても危険なことだ。これは、魔法に携《たずさ》わる者の鉄則である。まあ、美鎖はまったく気にせず箱の中に手をつっこんだりしているのだけれど、それは達人の美鎖だから許されるのであって、素人《しろうと》とたいして変わらないこよみとはいささか事情が異なる。なんの気なしに触ってしまったデーモンが原因でたいへんな目に遭《あ》ってからもう半年以上の時が経っている。たくさん勉強してたぶんマホー的に成長なんかもしちゃったりしたこよみは、どうなるかわからないものに考えなしに手を出したりはしないのだった。えへん。  木箱から立ちあがった嘉穂も、箱の中をのぞきこんだ。 「箱の中になんか浮かんでるよ。気をつけてね」 「突然だけど、森下にひとつ質問が」 「なあに?」 「画面上の卵にはヒビが入っているようにも見えるかと。浮かんでるほうのは?」 「透けてるからあんまり見えないけど……」  こよみは、箱のまわりを半周ほどして、半透明の卵を観察してみた。箱は美鎖が胸の高さで持っていて、身長百七十五センチの美鎖の胸の高さはこよみの視線の高さとほぼ同じだったりする。  ぴきりん。  そのとき、ケータイから音がした。ちいさなスピーカーで音楽を流したときのような、低音が欠けたデジタルサウンドだった。  画面と立体映像の卵両方に大きなヒビが入っている。 「あらら。なんか起こっちゃったわねえ」 「え? あ、あたし? あたし、なんにもしてないよ! 今回はなにもしてないです。ほんとです!」 「森下、まずは深呼吸」  嘉穂の言うとおりすーはーしてみる。  そうこうしているあいだにもケータイのスピーカーはぴきぴきと音を出している。それとともに、立体映像の卵のひび割れも大きくなっていく。 「これはちょっと、まずいかしらねえ」  美鎖の口調はこんなときでも緊張感がない。細められたその目は、変容をつづける卵やケータイではなく周囲の空間をさまよっているようだ。嘉穂はいつの間にか半歩離れた場所に退避して、比較的大きなダンボールの陰に身を隠している。 「こよみ、たらい使える?」  美鎖が言った。 「え? ぜんぜん、じゃなくて、はい。出すだけなら出せると思いますけど……ゼロからならっていうか、肝心の卵のこーどがまったくわからないっていうか、感じられないっていうか、見えてはいるんですけど……」 「コードの変換は無理、か。やっぱりね」 「どどど、どうしましょう」 「わたし、病みあがりの上にアミュレット失《な》くしちゃってるのよねえ」 「美鎖さあん」  美鎖の専門はコンピューターを使う現代魔法で、みずからの肉体でコードを組む古典魔法ではない。いままでは自作のマジックアイテムを使用することで古典魔法のコードを組んでいたらしいのだが、そのアイテムは先日の秋葉原の騒動でどこかへ行ってしまったのだった。 「ふたりとも出口の方向を確認しときなさい。この家のコードは普通より頑丈にできてるから、いざとなったら外へ逃げること」  美鎖がしゃべっているあいだも卵のヒビは着実に成長している。シャープペンシルで殴り書きしたようだった線がボールペンの線になり水性ペンの線の太さになってぴきぴきぴきぴき。透明人間の見えない手は、ペンを極太の油性マーカーに持ち替え、デジタルサウンドとともに卵の表面に真っ黒の極太ラインを引いていく。  こよみは、美鎖のシャツの裾《すそ》を握りしめ、そうすると太ももがあらわになってしまうのに気づいてあわてて手を離した。  ばりん。  ひときわ大きな音がした。  線と言えないくらい太いヒビ割れに覆われた卵が、風船のようにはじけたのだ。半透明のかけら欠片《かけら》が四方に飛び散り、光の粒子となってダンボールの壁へ吸い込まれる。一〇〇ワットの電球より明るい球体が、卵があった場所から天井めがけて上昇する。動きを目で追うことはできなかった。かすかに、周囲のコードらしきものが球体を中心に渦を巻いたような気がした。 「わ。わ、わ!」 「森下、解説」  ダンボールに隠れながら嘉穂が言う。 「ででで、でーもんだよ。とーめいな卵がぱーんて割れて、光のでーもん! キツネみたいな! うえ、うえ、ダンボールの上! 美鎖さん!」  美鎖はわずかにみじろぎしたようだ。箱の中からケータイをつまみあげ、眼前で振ったりしている。画面には粉々になった卵のカラが表示されているだけで、宙を自由に浮遊する物体の映像はない。卵のカラを破り飛びだしたモノは、ダンボールと天井のあいだにできた隙間を悠々《ゆうゆう》と周回している。 「こ、これって、危険なものなんでしょうか?」 「どうかしらね。とりあえず襲ってくるってかんじでもないけど……いまの時点で判断はつかないわ。いくら最近のは高性能になったからといってケータイのCPUひとつでデーモンが召喚できたりはしないし。このケータイはきっかけのひとつにすぎなくて、大規模な魔法発動コードがわたしの知らないところで動いていると考えるほうが合理的よね」 「し、知らなかった。そうなんですか」  こよみは、玄関の中を飛びまわる半透明の物体をじっくりと見てみた。それは、全体的にはオレンジ色をしていて、顔があって耳があって目があって二本の前脚があって、後ろ脚はよくわからないけれど光の粉を散らしながら後方になびく青白い尻尾《しっぽ》があって、全体的にはキツネっぽい形をしている。姿だけならかわいらしい小動物のようだ。いやいや、相手はデーモン。騙《だま》されてはいけない。こよみは考える。以前それで、てひどいしっぺ返しをくらったではないか。でもかわいい。かわいいものはかわいい。  こよみの視線の先を追って嘉穂も空間を凝視《ぎょうし》する。だけれど、やっぱり彼女には見えないようだ。美鎖が持つケータイの画面に卵のカラしか表示されていないことを確認し、 「なるほど。そう来たか」  嘉穂はつぶやいた、自分のケータイを取り出し、なにやらぽちぽちと操作している。 「森下。卵から出たそれ、どのへんに?」  こよみは天井近くの一点を指さす。嘉穂はケータイをそこに向けたようだ。彼女が見ているのは、目に見えない物体ではなくケータイの画面だった。 「なるほど。たしかに、キツネが燃えてるように見えなくもない」 「見えるの?」 「ケータイのカメラ越しなら」 「ちょっとだけだけど、かわいいよね?」 「価値観次第ではそう言えなくもないかも」  とか言ういつつ、嘉穂はカメラのシャッターを押したりしている。生まれたばかりの|それ《ヽヽ》は、サービスするかのように、嘉穂が持つケータイの周囲を飛び回った。 「でしょでしょ。炎のキツネさんだから、この子はファイヤーフォックスだね!」 「本当のファイヤーフォックスはレッサーパンダのこと。でも、魔法なら、炎をまとったキツネがいるのも、それはそれでアリなのかも」 「レッサーパンダってあれだよね! 中国《ちゅうごく》の奥地に四千年の歴史を持つ動物園があって、一子相伝《いっしそうでん》の直立芸を教えてるっていう幻《まぼろし》の動物なんだよね。そんでもって、秦《しん》の始皇帝《しこうてい》が戦争の偵察に使ったんだよね!」 「それはむかしあたしが言った冗談」 「えええー、ひどいよ嘉穂ちゃあん!」  飛び回るファイヤーフォックスを見ているのか見ていないのか、ケータイと箱を持った美鎖は思案顔で立っていた。 「森下が見えてるのもこれ?」  嘉穂がケータイで撮《と》った写真を見せてくれた。  ちいさな液晶画面に、青白い炎の尻尾がついたキツネっぽい物体が映っている。全体的に身体は細くて、頭と尻尾ばかりが大きくて、いま生まれたばかりの赤ちゃんギツネのようだ。 「おんなじだよ!」 「なるほど」 「どうするんですか、美鎖さん。やっぱり魔法で元の世界に送り返しちゃうんですか?」 「そのほうが当面の危険は少ないんだろうけど……誰がなんの意図をもってわたしのところにこの荷物を送りつけてきたのか、どこでどんな魔法が使われているかわからない以上、どういう結果をもたらすか判断のつかない手出しもしたくないのよねえ」 「じゃあ、この子、しばらくここに置いてもらえるんですね!」 「あまり気に入らない展開だけど、そういうことになるわね」 「だったら、呼び名をつけてあげないと!」 「ファイヤーフォックスの名前ならモジラかと思われ。あるいは、ロシア製だからロシア語で考えるべきなのかも」 「それも例の冗談?」 「これは本当」 「でも、もじらーって、怪獣みたいでかわいくないよ」  嘉穂は無言で肩をすくめる。 「同封の手紙によると、ある種の数学原理に従って動く魔法生物らしいわ。ニュートンに敬意を表してプリンキピア・マテマティカなんてどうかしらね」 「ぷりんきぴあまてまてぃか?」 「ちょっと長いかしら」  呼ばれたと思ったのか、ファイヤーフォックスはこよみのまわりと楽しげに飛び回っている。気のせいかもしれないけれど、喜んでいるようにも見えた。 「あらら。こよみになついちゃったみたいね」 「えへへへへ」  人知の及ばぬ|異世界の魔物《デーモン》のしていることを喜びの動作だと人間が勝手に解釈してしまうのは危険なことなのだとこよみも理解はしている。もしかしたら、ファイヤーフォックスはあとでこよみを切り分けて食べようとサイズを計測中なのかもしれない。ちょうど飛んで行こうと思った場所に邪魔《じゃま》な物体があって怒っているのかもしれない。あるいは、まったくなにも考えていないのかもしれない。だけれど、ちいさくてかわいらしい生物(?)が、自分のまわりでダンスを踊ってくれたら、それだけで気分はいくぶん上向きになってしまうものだ。 「この子を手元を置いておくにあたって、ひとつだけ注意事項があるわ。これだけは守ってもらわないとだめよ。こよみ、嘉穂。絶対厳守。約束できるわね」  美鎖は真剣な表情で言った。こよみは、ごくりんとつばを飲みこんだ。 「な、なんですか?」 「これ、弓子には内緒よ」 [#扉(img/yg6f_0051.jpg)]   第2章 輝くもの、透明なるもの [Chrome]  森下《もりした》こよみは、その日も、夢見が悪かった。  なんだか、やっちゃった気がする。  やっちゃったというのは、つまり寝ながらコードを組んでしまったっぽいということであり、こよみが使えるコードはたったひとつしかないのであるから結果も予測がついていて、それはさながら幼稚園に通っている子供が大海原《おおうなばら》で泳ぐ夢を見ながらおねしょの海図を描くようなもので、ただでさえ朝起きるのはつらいものだというのにベッドからの脱出をさらにブルーな気持ちにさせる事件なのだった。  汗を吸ってくしゃくしゃになったタオルケットから半分だけ顔を出して、こよみは目を開いた。  たらいが転がっているのかと思うと、ベッドの脇《わき》を見るのが怖い。大きなたらいがなぜ部屋にあるのか母親に説明するのはとても大変だし、持ち出してもいないのにいつのまにかそれが消えてしまっているのを説明するのはもっと大変なのだ。次の日の朝になったらなぜかそいつが復活しているのを説明するのはもっともっと大変だろう。  こよみはなにもないところで転ぶし、住み慣れた家の中でもこちこちと頭をぶつけるし、頭の中身も運動神経もそれほど優秀ではないし品行方正というわけでもないけれど、合羽橋《かっぱばし》にある伝説の金物屋に行かないと手に入らないような金《かな》だらいをいくつも隠し持っている残念な趣味の子だと両親に思われているわけでもない。というか、そんな高校生は世界中のどこを探してもいないんじゃないだろうかと思う。  憂欝《ゆううつ》だ。  ひっくり返ってしまった挙句、上空を舞うカラスに狙われているミドリガメのごとく、こよみは、タオルケット製の甲羅《こうら》からもぞもぞと首だけ伸ばしてベッドの横をチェックしてみた。  なにもない。  タオルケットに潜る。もぐもぐ。  もう一度見てみた。  やっぱりなにもない。完全無欠に、床はただの床だ。天井《てんじょう》からなにかが吊《つ》り下がっていたりもしないし、壁に金属製の物体がたてかけてあったりもしない。コードを組んだ感触が体に残っている気がするのだけれど、今度こそ夢の中だけの出来事だったのかもしれない。  こよみは、安心して、タオルケットをはねのけた。そして驚いた。お腹《なか》の上に半透明の物体が乗っかっているのだ。パジャマの裾《すそ》がちょっぴりめくれあがっておへそが見えちゃったりしているところに、コンピューターグラフィックみたいなモノが鎮座《ちんざ》している。それは、夕日と同じオレンジ色で、ゆらゆらと揺らめいていて、小ぶりの頭にはキツネのようにとがった耳があって、目があって鼻があって口があって櫛《くし》の先っぽみたいなぎざぎざの歯が生え揃《そろ》っていて、ちいさなその口はあんぐりと開いてミニミニのあくびをしたりなんかしている。 「ふぁ……ふぁいやーふおっくす、さん?」  こよみのお腹で丸くなっているのは、きのう姉原邸《あねはら》で出現した正体不明の|魔法生物《デーモン》に違いなかった。こよみと嘉穂が帰宅の途《と》についたとき、それは姉原邸の中を飛び回っていた。魔法学院として建てられた姉原邸からデーモンはそう簡単に脱出できないからだいじょうぶとかなんとか美鎖は言っていたはずなのだけれど、いつの間にかこよみのところにやってきてしまっていたらしい。  本当はすごく頭のいいはずの美鎖は、気合いを入れてないときは意外とやることがおおざっぱというか、手抜かりが多いというか、そんなところがこよみとすこしだけ似ていて親近感が持てたりするのだけれど、家に閉じ込めたはずのデーモンがこよみのお腹の上でまどろんでいるというのはよくないことのような気がする。かといって、朝に電話しても美鎖が起きている可能性は限りなく低い。 「ええと、どうしよう」  炎のキツネは、こよみの上でクロワッサンの形で寝そべっている。こよみのお腹が気持ちいいのか、ちいさな顔ですりすりしたりもしている。熱くない炎だか光の粒子だか魔法の毛皮だかよくわからないものが素肌に触れてたいへんこそばゆい。気のせいかもしれないけれど、ファイヤーフォックスは喉《のど》を鳴らしているようでもある。かすかな振動がこよみのお腹を揺らしている。姉原家を根城《ねじろ》にする黒猫が聡史郎《そうしろう》に甘えているときに出す音というか、もうちょっと電子音っぽいかんじのごろごろだった。 「お、おはよう……聞こえてる?」  こよみの言葉に、ファイヤーフォックスは左右に尻尾を振って応《こた》えた。  言葉の中身はともかく音としての言葉は聞こえているらしい。どうせなら名前を呼んであげたいところだが、あいにくと記憶が定かではない。キウイ味のプリンとかそんな感じの単語を美鎖は言っていたはずと思う。だけれど、難しすぎて左右の耳のあいだを高速で通過してしまっていた。 「ぷ、ぷ、ぷ……」  こよみが口の中でもごもご言っていると、ファイヤーフォックスがひときわ大きく尻尾《しっぽ》を振った。白い炎がはじけ、輝く粒子が朝陽《あさひ》に散って消える。こそばゆい。 「プー?」  また振った。 「プーでいいの?」  ちいさな顎《あご》がこくんとうなずいた。なんだか楽しそうだ。くまでもないのにプーなんて名前で呼ばれてこの子はいいのだろうかという気もするが、本人が気に入ったのならしかたない。それに、プなんとかかんとかという長い名前をつけたとしても、どうせ呼ぶときは最初の二文字とかになってしまうものだ。だったらプーでもいいんじゃないだろうか。響きがキュートだし。  もしかするとこの子はまだ子供なのかもしれない。こよみは思った。なんといってもきのう卵から生まれたばかりなのだ。  そもそも魔法というのは、異世界にあるなんだかよくわからない法則をコードというなんだかよくわからない手段を使って呼び出す方法のことである。呼び出されるのは、とにかく、なんだかよくわからないものなのだから、理解したふりをしてごく普通に対処しているとひどい目に遭《あ》ったりする。  たとえば、こよみが魔法を習いはじめたばかりのときに遭遇《そうぐう》したソロモンの魔物は、ものすごく強くて放っておいたらたくさんの人を危険に陥《おとしい》れる存在だったけれど、ソロモンの魔物そのものに悪意はなかった。なんだかわからない方法で見たこともない世界に呼び出されてしまっただけだ。人類を滅亡させるために、ソロモンの魔物がわざわざ自分の意思でやってきたわけではないのだった。  ファイヤーフォックスのプー(仮称)も、そうなのかもしれない。  美鎖のところに送られてきたケータイに表示されていたのは卵だった。ファイヤーフォックスは、ソロモンと同じく、召喚魔法によって無理矢理この世界に連れてこられてしまった不幸な子なのかもしれない。実際に悪さをするのはデーモンかもしれないけれど、本当に悪いのは魔法を使った人間だ。意に沿わず召喚されてしまったデーモンではない。  それに、このファイヤーフォックスは、いままで追いかけられたことのあるデーモンたちとはどこか違う気がする。弓子などに言わせれは、そういう人間の身勝手な解釈こそが危険なのだということになるのだろうが……。  ファイヤーフォックスの卵が割れた瞬間にこよみが居合わせたのはひとつの縁だし、その子がなぜかこよみについてきてしまったのも縁だ。たしかにデーモンは危険をもたらす存在かもしれない。だけれど、こよみは、どんなコードでもたったひとつの魔法に変換してしまうことができるのだ。デーモンがこよみの側にいるというのは、悪くない解決策なんじゃないかという気がした。 「ねえ、プー。もしも……もしもよかったらなんだけど、しばらくのあいだ、あたしがあなたのお母さんになってあげようか?」  ファイヤーフォックスはふわりと浮かびあがり、こよみの周囲を、たぶん、うれしそうに飛び回った。  こよみは、ファイヤーフォックスのプーを学校に連れていくことにした。といっても、そう思っているのはこよみだけで、プーはたまたまこよみについて来ていただけかもしれないけれど。  半透明のプーは、さわろうと思えばさわれる存在なのだけれど、完全な固体かというとそうでもないらしく、ガラス窓やカーテンくらいなら擦り抜けることができるようだった。部屋に閉じ込めるのは不可能で、家に置いておいたらどこかへ行ってしまうかもしれない。だったら、こよみの近くにいたほうが問題はすくないし、学校に行けば嘉穂《かほ》がなんとかしてくれるかもしれない。そう、こよみは考えたのだった。  さいわいなことに、魔法使いではない人間の目にプーの姿は映らないようだ。満員電車の吊り輪をスラロームの要領でプーがくぐり抜けていても、誰も気づく人はいなかった。  学校につくと、プーは、授業を受けている生徒たちの頭上でくるくると踊っていたり、かと思うとこよみの首に巻きついてバターになるんじゃないかと思うくらい激しく回転したり、そうこうしているうちに疲れたらしく頭の上でクロワッサンになって眠ってしまったりしていた。頭の上で寝ているプーは重さというものをちっとも感じさせなくて、羽でできた極上の帽子をかぶっているような、そんなかんじだった。  ケータイの中の卵から生まれたプーはケータイが好きらしく、授業中に机の下でこっそりメールを打っている生徒がいると、一直線に飛んで行って机の周囲でロンドを舞った。誰にも見えないプーがここにいることを知っているのはもちろん誰もいないのだけれど、こよみは気が気ではなくて、しかたがないので普段は電源を入れていない自分のケータイを操作してプーを呼び戻す。机の中に入れたケータイをプーはがじがじとやっているようだ。木の板と紙を貫《つらぬ》いてノートの上に飛び出した青白い尻尾がせわしなく揺れていた。 「だめだよ。プー。ケータイは食べものじゃないよ。お腹《なか》こわしちゃうよ」 「森下さん!」  おかげで、こよみは、違う先生に合計三回も怒られてしまった。  そして、お昼休み。  こよみの隣の席までやってきた嘉穂は、きのうと同じく、ケータイのカメラ越しにプーを見ていた。プーはこよみの頭の上だ。思い思いの場所で昼食をとっている他の生徒たちは、プーの存在にまったく気づいていない。 「プー?」  サンドイッチをくわえながら嘉穂が言った。 「美鎖さんが言ってたやつ。ぷ……なんとかかんとかって」 「プリンキピア・マテマティカ」 「そう、それ。言いにくいからプーって呼ぶことにしたの。かわいいでしょ。本人も気にいってるんだよ」  嘉穂の眉がわずかに寄った。あわててこよみはつけ加える。 「……た、ぶんだけど。たぶん気に入ってると思う。あたしは」  こよみがプーという言葉を発すると、ファイヤーフォックスが浮かびあがり、午後の陽光の中でくるりと一回転した。 「ね。楽しそうでしょ?」 「もしかしたら、それって森下の才能なのかも」  悠然と宙を泳ぎ回るプーをカメラ越しにしばらく眺めていた嘉穂がつぶやいた。 「なにが?」 「変なものになつかれるというか、変なものが近くに寄ってくるの。あたしはそもそも肉眼じゃ見えないし。森下は、最初から見えていたかと」 「才能かあ」  いい言葉だ。こよみは思った。魔法を習いはじめてかれこれ半年になろうというのに、こよみはアセンブラの魔法がちっとも上達していない。いちばん簡単だというセント・エルモのコードもまだ組むことができないのである。だけれど、嘉穂の言うとおり、たしかに最初からデーモンの姿は見えていた気がする。いつまでたっても魔法が上達しない代わりに、不可視の魔法現象が見えたり、不思議な生物となかよしになったりするささやかだけどそれなりに役立つ才能があるのだと考えればそれはそれでかなりうれしい。  そんな資質がこよみに眠っているなら、美鎖のような立派な魔法使いにはなれないかもしれないが、フシギセイブツ園の園長さんか、もうちょっと野望をちいさくしてフシギセイブツカフェの店長さんかなんかだったら、がんばればなれるかもしれない。こよみはコーヒーも紅茶も淹《い》れるのが苦手だから、聡史郎を雇ってこき使ってあげることにしよう。なかなかグッドな未来設計だ。 [#挿絵(img/yg6f_0061.jpg)]  嘉穂は、小首をかしげてこよみのことをじいっと見ている。 「うんとね、もしもあたしに才能があるんだったら、プーみたいなかわいい子をいっぱい集めて、カフェができたらいいなって考えてたの」 「ふうん」  あまり興味がなさそうだ。 「ええー、プーはこんなにちっちゃくてかわいいのに。きっとネットとかで大人気になるよ。フシギセイブツカフェ」 「でも、そのかわいいのも森下ひとりにしか見えないかと思われ」 「がーん。ばら色の将来設計だったのに。残念だね、プー」  なにがおもしろいのか、プーは、天井近くまで駆けあがっては、こよみの手元まで急降下する遊びを繰り返している。こよみの弁当箱に入っているタコのウインナーさんはプーの視界には入っていないようだ。こよみがつまみあげても。前脚の先にちまっと並んでいる宝石みたいな爪でちょいちょいとひっかいて遊ぶだけで、嘉穂のケータイに飛んで行ってしまう。 「おっと」  突進して齧《かじ》ろうとするプーを、カメラで見ながら嘉穂は華麗《かれ》にかわす。 「嘉穂ちゃん、この子、朝からなにも食べてないんだよ。あたしのお弁当、気にいらないのかなあ」 「異世界のデーモンがこの世界の物質を食料にするとは限らないかと」 「ケータイとかかじってるし、口に合う食べものがなくてお腹空いてるんじゃないかな」 「だいじょうぶかと思われ」 「なんで?」 「気のせいじゃなければ、きのう見たときより大きくなってる気が。成長にはなんらかのエネルギーの摂取《せっしゅ》が必要」 「なに食べてるのかな?」  言葉を発することなく、嘉穂は静かに肩をすくめた。  結局、その日は美鎖に運絡はつかなかった。美鎖|宛《あて》のメールを嘉穂に出してもらって、こよみは、出かけたときと同じく頭上にプーを乗せて帰宅することになった。  連絡が取れない以上、この状態を美鎖は非常事態だとは考えていないだろうというのが嘉穂の言い分だった。危険が間近に迫っているなら彼女が放っておくはずはない。つまり、いまのところ、プーは危険な存在ではないと美鎖は判断しているということだ。それが、こよみはちょっとだけうれしい。  あしたはちゃんと美鎖のところへ行って、しっかりと世話をするから飼ってもいいかと聞いてみよう。プーはいい子だから、美鎖も頭ごなしに否定したりはしないだろう。  翌日の授業の用意をしてベッドに横たわると、プーはもぞもぞとタオルケットの中にもぐり込んできてこよみのお腹の上で丸くなった。 「おやすみ、プー」  丸まったまま、プーは尻尾の先を振って答える。  こよみは、おそる恐る手を動かし、へその上でカールしているプーの尻尾を撫でてみた。ゆらめく炎をまとったプーの尻尾はちっとも熱くなくて、かといって冷たくもなくて、宙に放りあげたわたがしのような感触で、魔法の毛だか粒子だかがてのひらにくすぐったかった。線香花火みたいな光が、タオルケット越しに、暗闇の中に浮かびあがっていた。           * 「なんですってえー」  翌日の放課後。銀座《ぎんざ》の裏通りにある洋館にこよみと嘉穂がたどり着くと、聞きおぼえのある声が鼓膜《こまく》を揺らした。銀座番外地などと呼ばれている洋館にたちこめる陰鬱《いんうつ》な空気を吹き飛ばす力をもった透明な声だ。  できるだけ目立たないよう、こよみは静かに扉を開ける。玄関から射《さ》し込んだ白い光に、黒い影と白い影のふたつが照らしだされる。一昨日よりすこしだけ広くなったダンボールの渓谷《けいこく》で、ふたりの女性が対峙《たいじ》していた。ひとりは美鎖。もうひとりは、|一ノ瀬《いちのせ》弓子《ゆみこ》クリスティーナである。  紫《むらさき》がかった銀髪をふり乱し、標準よりもだいぶ大きい胸を張って、弓子は百七十五センチの美鎖に食ってかかっていた。 「つまり貴女《あなた》は、由来もわからぬデーモンを世界に解放した挙句《あげく》、まんまと逃げられ、あまつさえそれを追跡もせずに丸一日以上放置していたというのですね」 「仕事で忙しかったのよお」 「弁明になっておりませんわ」 「そうは言うけど、大人になると、生活費を稼《かせ》いで生きていくだけでもけっこう大変なものなのよ」  わざとらしく腕を組み美鎖がうんうんとうなずく。弓子の眉《まゆ》が逆《さか》あがるのが見てとれた。横を見ると、嘉穂は、アネゴたちのバトルが終わるまで何時間でも待つぜ、の顔だ。しかたないので、届かなければいいなと思いつつこよみが声をかけることにした。 「あのう……」 「廊下《ろうか》を埋めつくす量のガラクタを買いこんでおいてなにを言っているのです! 魔法に携《たずさ》わる者としての責任と自覚が貴女には足りないのですわ」 「わたしはフツー。弓子がありすぎなのよ。ガウス分布で言ったらプラス五シグマくらい」 「訳のわからぬ言葉で馬鹿にしないでくださいまし!」 「……ごめんなさい!」 「ガウス分布は訳わかんなくないわよ」 「わたくしはそういうことを言っているのではありませんわ。ところでこよみ、悪くもないのにあやまるものではなくってよ」  弓子が言った。こよみたちが来ているのに気づいていたらしい。 「あら、ふたりともいらっしゃい」  美鎖はいま気づいたようだ。  同時に、こよみの頭の上で帽子になっていたプーが飛びたち、ちっちゃな鼻をくんくんと動かしながら、弓子の周囲を螺旋状《らせんじょう》に駆け巡った。プーが飛んだあとには光る粒子が残り、銀色の髪に積もってきらきらと七色に輝く。となりにいる美鎖は、近視の人が遠くを見るときのみたいに、もとから細い目をさらに細め、プーがいる空間を睨《にら》むように見つめている。 「これが件《くだん》のデーモン……ファイヤーフォックスですのね」  ケリュケイオンの杖《つえ》を固く握った弓子は紫の瞳《ひとみ》でプーの軌跡《きせき》を追いかけている。 「見つかっちゃったわね。弓子に言うと怒るから内緒にしときたかったのになあ」 「内緒にされるから怒るのかと」  嘉穂がぼそりとつぶやく。 「あらそう。難しい年頃なのねえ」 「あのあの……美鎖さん」 「なあに」 「あたし、聞きたいことがあって。もちろん、できたらでいいんですけど……だめだったらしょうがないんですけど、でもでも……その……この子、あたしが飼ってもいいかなって」 「デーモンを飼う、ですって?」  こよみの言葉に反応したのは弓子だ。こよみは嘉穂の後ろに隠れ、服の裾《すそ》を握りしめた。弓子の声色がとても怖かったので。 「こ、この子、プーっていうの。悪いことしないし、とってもかわいいんだよ」 「閉じ込めて使役するならともかく、デーモンを飼うなんて、わたくしは聞いたことがありません。ありえませんわ」 「それなんだけど、デーモンかどうかについてはいまひとつ確証が持てないよね。たぶんデーモンの一種だとは思うんだけど。送られてきたのは本当にただのケータイだったし。コードっぽいものが走っていた形跡はあるんだけど、消されちゃったか、それとも最初から魔法発動コードとしてはほんの一部でしかなかったかのどっちかで、どちらにせよ原因究明には至ってないわ」 「美鎖。貴女は、ご自分の弟子《でし》がミダス王になってもよろしいと言うんですの?」 「なに? ミダス王って」 「ロバの耳になった王さまのことかと」  こよみの問いに嘉穂が答える。 「ええー、あたし、ロバの耳になっちゃうの? やだよう」 「そっちではありませんことよ。触れたものが黄金になる願いがかなったのはいいけれど、食べものも飲みものもすべて黄金になってしまって困ってしまった王の話のほうですわ。制御もできない、原因もわからない力を欲するものではないという訓話《くんわ》です」  嘉穂は肩をすくめた。彼女のことだからわかっていて言ったのかもしれない。 「とにかく、わたくしは反対ですわ。異世界の理《ことわり》に従うモノを野放図に動きまわらせておくわけにはいきません」 「でもでも、この子はまだ赤ちゃんなんだよ」 「それこそが危険だと言うのですわ。まごまごしていると、ソロモンのときのように間に合わなくなる可能性だってありましてよ。このデーモンは、いますぐ元の世界に送り返すべきです」 「でも、それをわたしたちにさせるのがわたしにケータイを送りつけた相手の狙いってこともあるんじゃない? 相手がわたしだけでなく弓子のことまで知ってたら、当然、デーモンは元の場所に帰すと予想するでしょ」 「だったらなんだと言いますの。もしも罠《わな》だったなら、わたくしたちを陥《おとしい》れようなどとした愚かな人間を見つけて相応の報《むくい》いを受けさせればよいだけの話ですわ」  異世界から召喚《しょうかん》されたデーモンはなにをもたらすかわからない。最初は無害に見えていても、最終的にはソロモンの魔物のような破壊をもたらす可能性はいつだってある。それだけでなく、ソロモンの魔物が召喚されたときは、それに付随《ふずい》してちいさなデーモンがたくさん出てきていた。そして、デーモンたちは人間のルールに従ってくれはしないのである。放っておいてよいものではない。乱暴に聞こえるが、弓子の言うことは正論だ。  ファイヤーフォックスのプーは、なんの不安もなさそうな様子で、一日ぶりに来た姉原邸の天井付近を飛び回っている。弧《こ》を描くたびにふりふりと揺れる尻尾がラブリーだった。美鎖は、眼鏡《めがね》の奥の目を細めてプーを凝視《ぎょうし》している。美鎖は言った。 「こよみはどう思う?」 「え? あたし……あたしの意見ですか?」 「結果的にとはいえ、このデーモンの面倒を見ていたのはわたしじゃなくてあなただし」 「ええと」 「こよみ、貴女はこのデーモンが赤ちゃんだと言いましたわね。ならばよくお考えになって。右も左もわからぬ赤子が、生まれた場所と違う異世界に突然呼び出されてはたして幸せな状態であると言えますの?」 「……うう」  せっかくなついてくれたのに。せっかく仲良しになってきたのに。せっかくの才能の開花かもしれないのに。でも、言われてみればたしかに弓子が正しい気もした。この世界はファイヤーフォックスが本来生息する世界ではない。魔法によって無理矢理連れてきてしまっているにすぎない。もしも、他の世界にこよみが無理矢理連れていかれてしまったらと思うとぞっとする。  別れは悲しい。でも、もっと仲良くなったらもっと悲しいかもしれない。もしもプーもこよみのことを好きだと思うようになってくれているのだとしたら、プーだって悲しいだろう。それがプーの幸せだというのなら、いまのタイミングで元の世界に返してあげるのがいいのかもしれない。なにも知らないファイヤーフォックスは、ダンボールの渓谷を快適に飛行している。  こよみは、一語一語、お腹《なか》から声をしぼりだすように答えた。 「あたしも、そう、思う」 「いいのね?」  美鎖が聞いた。こよみは無一言でうなずいた。 「そういうことなら、弓子にまかせるわ」 「わたくしのやりかたでいいんですの?」 「いいわよ」 「もしかして、貴女、体調でも悪いんですの? コードが乱れているようでしてよ」 「そうなのよ。病みあがりだから」 「では、わたくしがやらせていただきますわ。こよみ、いいですわね」  魔法とは、世界と世界のあいだにある壁に綻《ほころ》びをつくりだし、異世界の法則をこの世界にもたらす方法のことだ。ということは、この世界の法則を強固なものにすることもできるということだ。それはすなわち、この世界の物理法則に従ったコードを使い、世界というタペストリーの縫い目をしっかりと縫い直す。あるいは、すでにある綻びを修復する。弓子が使ったのはそういうコードだった。 「理《ことわり》映す鏡となれ我がコード!」  空間に消しゴムをかけたように、とつぜん、炎のキツネは消えてしまった。一瞬のことだった。美鎖はあいかわらず目を細めていた。ケータイの画面を覗いていた嘉穂は、一度、まばたきをした。  ついさっきまでこよみの頭の上で尻尾を揺らしていたファイヤーフォックスは、なんの痕跡《こんせき》も残さず、あっさりと、いなくなってしまった。 [#扉(img/yg6f_0073.jpg)]   第3章 神の運び手 [Sleipnir]  姉原聡史郎《あねはらそうしろう》は魔法が嫌いである。  本人はけっして嫌いではないと主張している。なぜなら、魔法などというたわけたものがこの世に存在するはずはないからだ。  その朝、提出期限の迫っている課題を完成させようと、姉の仕事場にある二十四インチモニターの前に座った聡史郎は、整った眉《まゆ》をハの字の逆さの形に歪《ゆが》ませた。  モニター画面に、赤いゴシック体で巨大な文字が点滅していた。  死せる者は幸いである。  神の国は汝《なんじ》がものなればなり。  無駄《むだ》に広く殺風景な部屋にコンピューターのファンと空気清浄器の駆動音がこだましていた。壁面を占領するスチールラックの下段にはタワー型のPCが並び、上の段にはフォース言語のリファレンスマニュアルから人造人間《ホムンクルス》のつくりかたまで、雑多な種類の本が詰まっている。  机の上に置いてあるのは、液晶モニターと、キーボードと、マウスと、持ち手がみっつもついているハサミに、バナナを吊《つ》るしてあるのを見たことがないバナナハンガー、クリスタルグラスには気の抜けた炭酸水が半分だけ入っていて、その横に食べかけのカロリーメイトが転がっている。  バナナハンガーには、バナナではなく、なにやら殴り書きしてあるA4サイズの紙が突き刺してあった。紙面に記されているのは、時間とか空間とかの文字が矢印で結ばれている図のようだ。洋画に出てくるマッドサイエンティストがよくこういう図を書いている。製図した人間と血が繋《つな》がっているかと思うと、タイムマシンで百年前まで行って先祖を皆殺しにしたくなるから不思議だ。  聡史郎は、画面に表示されたゴシック体をもう一度読んだ。文章は同じだ。最初に見たときから1ドットも欠けていない。寸分の違いもなく完璧《かんぺき》にいかれていた。  小さく毒づき、聡史郎は別のマシンのマウスを動かす。電源が入った省電力モニターの画面に、じんわりと同じ文宇が映しだされる。何度キーを叩いても、画面の表示は変わらない。コンピューターがハッキングされたのだ。姉の美鎖が、またぞろ、サイバーフリークのサイコ野郎の恨《うら》みをどこかで買ってしまったようだった。  教育施設や政府機関のサーバーならともかく、個人の家のコンピューターに侵入してなにが楽しいのかさっぱりわからないが、姉原家のコンピューター・ネットワークはときどき外部からの侵入を受けた。それも、米国国防街を攻撃するための踏み台用とかではなく、純粋に、個人が所有しているコンピューターの中身を覗《のぞ》くことを目的にハッキングされているようなのだった。  たしかに姉は、二年で型落ちになるコンピューターの最新機種を常時十台以上もぶん回している。質・量ともに一般家庭に置いてあるマシン群ではない。かといって、それほど重要な情報が入っているわけでもなく、ハードディスクの中には、聡史郎が撮《と》りためた黒猫の写真と、姉が組んだという詐欺《さぎ》くさいプログラムの実行ファイルが置いてあるくらいである。堅牢《けんろう》なファイヤーウォールを破って、中身を覗く価値があるとは聡史郎にはとても思えない。  それなのに、どこの誰だかわからないヒマ人がときたまやってきては、不気味なメッセージを残しデータを破壊していくのだ。ちょうどそれは、姉がプログラミングの仕事をはじめ、いかれた連中が家にやってくるようになった頃と時期を同じくしていた。  もしかすると、いかれた姉の住むいかれた姉原家には、太陽黒点から呪《のろ》いの電波でも降ってきているのかもしれなかった。  課題のデータはハードディスクの中からきれいさっぱりなくなっていた。ミラーリングも含めたすべての記憶装置が、わけのわからない呪文で満たされている。聡史郎の努力の結晶は、磁気《じき》ディスクの同心円の中にほとんど消えてしまったことになる。 「まったくいかれてやがる」  つぶやき、聡史郎は、ネットワークに繋がっていない姉のノートPCのスイッチを入れ、失われた課題のつづきを書きはじめた。  キーボードと格闘すること一時間。記憶をたよりにやっと課題の前半部分を書きなおした頃、聡史郎の右手で扉の開く音がした。  姉の美鎖だ。 「もう。またわたしのPC使ってる」  ぷー、という音がした。美鎖はふくれたようだ。聡史郎は返事をしてやった。 「おはよう」 「おはよう、じゃないでしょ。このマシンはコードの調整をしてあるから、使っちゃ、めっていっも言ってるのにい」 「しかたないだろ。他のマシンがやられてるんだから」  椅子《いす》に座ったまま聡史郎は肩をすくめる。広い室内を横切り、聡史郎のとなりまでやってくると美鎖は画面を覗きこんだ。 「あらら。最近は、そういう関係の仕事はしてないはずなんだけど……」 「姉さんの仕事にそういうもこういうもあるのかよ」 「あるわよお」 「こっちはデータがふっとんで大変だったんだぞ。もっとちゃんと対策しろよ。よくわかんねえけど、姉さんならできるんだろ?」 「コードで追跡してるから、これはこれでいいのよ」  美鎖は聡史郎の鼻をつんとつついた。本人はあまり侵入されたことを気にしていないようだ。しかめっつらで、聡史郎はモニター画面に向きなおった。 「もうすこしやったら朝食をつくってやる。まだ本調子じゃないんだからあんまり無理すんなよ」 「やさしいのねえ。姉さん感激だわ」 「茶化すんじゃねえの」 「あら。本当に感動してるのに。この世でたったひとりの肉親ですものね」 「だから父さんを勝手に殺すなよ」 「じゃあ、わたしはもうひと眠りするわ。ごはんができたら起こしてね」  あくびをしながら美鎖は部屋を出ていった。それにしてもこのタイミングでヨハネ黙示録《もくしろく》とはおかしいとかなんとか、ぶつぶつとろくでもないことをつぶやいている声がかすかに聞こえた。  FBIに逮捕されて禁固百年くらいになるのが適当なサイバーサイコが、犯罪のタイミングをこちらの都合に合わせてくれるほうがおかしい。聡史郎は思った。だけれど、残念ながら姉の思考回路も世間の標準と比べるとだいぶおかしいとも言えるので、いかれた者同士しか理解し合えないいかれた論理というものがそこにはあるのかもしれない。  秋葉原《あきはばら》の一件があって、せっかく平穏な日々が戻ってきたと思ってたのにどうも一筋縄《ひとすじなわ》にはいかない。この上、たらいをごちごち降らせるちんちくりんや、突然地面や壁を爆発させる銀髪女が姉原家の日常に絡《から》んでこなければいいと思うが、それすらもおそらくは実現不可能な高望みというやつなのだろう。  聡史郎はキーボードを叩く。  まったくもって、世の中はいかれている。           * 「おつかれのようですね」  男は言った。  端正な顔立ちの男だった。完全な東洋人とも完全な西洋人とも言い切るには難しい容貌《ようぼう》に、なにを考えているのかわからない微笑を浮かべていた。イントネーションからすると、ネイティブは日本語とは別の言語らしかったが、簡単にわかる情報だけで相手を知った気になると、弓子自身の出自《しゅつじ》がそうであるように、判断を誤ることがある。  初夏の銀座《ぎんざ》だった。  数寄屋橋《すきやばし》の交差点にほど近い場所は、家路を急ぐ仕事帰りの人と、しばしの休息を楽しもうとやってきた人が入り交じっている。逢魔《おうま》が刻《とき》と呼ばれる時間帯は、信号待ちをする人々の背を赤く染めている。変わる間際《まぎわ》の信号をすり抜けて、黄色いスポーツカーが交差点をすっとんでいった。  組み立て式の粗末なテーブルを前に、男は、踏み台のような椅子に腰をおろしていた。テーブルにはクロスがかけてあり、和紙張りのランタンが置いてある。ランタンの中では子供の手首ほどもある太いロウソクが燃え、揺れる炎が、筆で書いたらしい「TESO」という文字を照らし出していた。  弓子が無視していると、男はもう一度言った。 「わたしは手相を勉強しているものです。よかったら見せていただけませんか。なに、お代はいりません。最近は、風の精霊が騒いでいますからね」  風の精霊などというものがいないことを弓子は知っていたが、言ってもしかたのないことなので敢《あ》えて否定はしない。 「占いは信じられませんか? お嬢さん。目に見えないだけで、世界には魔法が満ちているんですよ」  男は弓子の表情を読み取ったようだ。微笑を張りつけた口が回転をつづける。  常識的に考えれは、悩みを持つ若い女性に向けて石を投げれば恋の悩みにぶつかるものだ。というか、当たらなかった場合は占いの商売相手にはならないのだから外れても痛くない。弓子が餌食《えじき》に選ばれたのは、銀色の髪のせいかもしれないし、かたときも離さない杖《つえ》のせいかもしれない。  そう言えは、手相見は本当は諜報機関《ちょうほうきかん》の連絡員だとかなんとかこよみが主張するのを聞いたことがある。嘉穂が言っていたそうだから、冗談をこよみが信じこんでしまっただけかもしれないけれど……。  いずれにせよ、弓子には必要のないものだった。 「高名な魔法使いの遺産管理人があるときこう言ったそうです。魔法のいけないところはただひとつ。それが実効を発しないことだ、とね」  男の言葉は流麗《りゅうれい》だ。弓子は応《こた》えない。ただ、信号が青に変わるのを待っていた。  この占い師モドキの男は、誰を相手にペテンをかけようとしているのか理解しているのだろうか。弓子は思う。|一ノ瀬弓子《いちのせゆみこ》クリスティーナは、いわゆる本当の魔術書を読んで育った。まともなことはほとんど書いてなかった。一パーセントの憶測に九十九パーセントの尾ひれがついたのが魔術書というものだ。ケテルだのコクマーだの、迷信深く学のない中世の住人を騙《だま》すのには適していた知識も、現代となったいまは無用の長物であると言えた。 「しかし、お嬢さん。人類の魔法からの解放はすなわち欲望の解放でした。伝統的社会から近代市民社会へ進化するとき、ヒトは魔法を失い、欲望を手に入れた。へーゲルという人間が言っていることです」 「ずいぶんとお詳しいんですのね」  見ず知らずのこの男の言うことは、一〇〇パーセント嘘《うそ》というわけでもなかった。魔法のことなら、弓子は誰よりも知っている。古典魔法がこの世から姿を消したのは、封建《ほうけん》制度から資本主義制度への転換が原因だ。経済が発展し、産業革命が起き、工業が発展し、効率の悪い魔法は次第に姿を消していったのである。魔法は、蒸気機関を動力とした大量生産、すなわち人類の飽くなき欲望にはかなわなかったということだった。  弓子は、すこしだけ、目の前の男に興味を持った。占いなどというペテンはどうでもいいが、この男が持つ知識に対してなら、夕方の時間をちょっとくらい費《ついや》してやってもいい気がした。どうせきょうは、これから美鎖のところへ行って、デーモンを送りつけてきた人間の後始末を相談するだけのことだ。弓子のような人間を鴨《かも》とまちがえて声をかけた占い師は不運かもしれないが、そこは、自分の見る目がなかったと思ってあきらめてもらうしかない。  弓子の内面に起きた変化を知ってか知らずか、独特のイントネーションで男は言葉を発する。 「人間がつくりだした市場経済というシステムは、資源の配分の効率を等価交換によって高めて人類全体の価値を高め幸せの絶対量を増やしていくものです。その中で個人の幸福は置き去りにされざるを得ない。市場は個人の幸福を考慮したりしないからです。魔法を喪《うしな》った人間たちは社会の発展を手に入れたけれど、個人の幸福を失ってしまった。個人の幸せは、いまも、三千年もの昔も本当はどこにもいない神さまにずっと委《ゆだ》ねられています。これほど文明が発達したというのに、ヒトは、幸福を個人に公平に配分するシステムを神さま以外に発見できていないんです。まったく馬鹿げた話だとは思いませんか?」 「幸福はみずからの手で勝ち取るものでしてよ。道ばたに転がっているものでも、天から与えてもらうものでもありませんわ」 「そうでしょうか。失われてしまった魔法なら、絶対的な幸福をあまねく人々に公平に配分することができるんじゃないか、そう考えることはありませんか?」  弓子は首を横に振った。 「かつて、魔法は錬金術《れんきんじゅつ》からはじまりました。錬金術師というのは、この世にはじめて現れた科学者だったのですわ。そこにあるのは、幸福などというものではなく、純粋な知識です。魔法は、知識が生み出した道具にすぎません」 「……それが、きみ中に眠っている魔女のライブラリでも?」  男の口調が変わった。弓子はケリュケイオンを握りしめる。夕方の道を往く人々の足は速い。男の微笑も、弓子の緊張も、すべてが高速で回転し、境界のあいまいになった建造物がつくる闇《やみ》の中へ溶け込んでいく。 「貴方《あなた》、何者ですの?」  手相見は魔女のライブラリの存在を知らない。  この男は、ただのペテン師とは違うようだ。最初は柔和だった雰囲気《ふんいき》もいまは剥《む》きだしのナイフのようだ。注意していたつもりだったのに、弓子は、まんまと、男の外見に惑わされてしまっていたのだった。男は言う。 「魔女のライブラリというのは、もともとは人の幸せのために集積された知識だ。大魔女ジギタリスが生まれてしまったのは、人類が、個人個人の人を幸せにするその知識を使いこなせなかったからにすぎない」 「もう一度聞きます。貴方は何者ですの?」 「むかし、十分に発達したテクノロジーは魔法と区別できないと言った小説家がいる。ぼくは、古いサイエンスフィクション小説が好きでね。コールドスリープ装置が出てきたり、ピカピカの宇宙船が出てきたりする話だ。それらの小説が書かれたのはいまから半世紀も前の話で、どう見てもいま現在より過去なのに、作品世界の中では宇宙船が木星まで行ってしまったり宇宙人と戦ったりしているんだ。残念ながら、飛躍的に発達したのはコンピューターだけで、人類は海の底にもたどりついてないし木星にも行っていない。不老長寿も手に入れてない。残念なことだよね」  弓子の質問に男は答えない。 「わざわざわたくしに話しかけてきたということは、貴方が、今回の一件の裏で糸を引いていると考えてよろしいんですのね」 「違うって言っても、この状況だと信じてもらえないかもしれないね」 「真実はわたくしが判断いたしますわ」 [#挿絵(img/yg6f_0085.jpg)] 「ひとつ提案があるんだが、ここで、ちょっとしたゲームをしてみないか?」 「そのゲームとやらに参加して、わたくしになんの益《えき》がありますの?」 「きみが欲しがっているとぼくが一方的に想定している情報を無料で提供しよう」 「一応、貴方が勝ったときの条件も聞いておきましょうか」 「べつになにも。古典魔法使いの魔法というものをこの目で見られるだけでかまわない」 「泣いても知りませんわよ」  男は、懐《ふところ》から古びた1ドルコインをとりだし、テーブルの上に置いた。 「ゲームの説明をする。これをテーブルの上からとったほうが勝ちだ」 「バカバカしい」  無造作に弓子は手を伸ばす。その手首を、男が掴《つか》んだ。骨ばって細く、そして、おそろしく冷たい指だった。 「おっと。もちろんぼくは妨害をさせてもらう。ただで取れると思ってもらっては困るな。これでも男だから、きみよりだいぶ力は強いだろう」 「そういうことですと、魔法で実力行使させていただくことになりますけれど、よろしくって?」 「もちろん」  男が言い終わらないうちに、弓子はコードを組み上げる。いちばん慣れ親しんだコードだ。息を吸うのと同じレベルで弓子は組むことができる。反応できるものならしてみるがいい。 「剣と化せ我がコード!」  半透明の剣が机に突き立った。もしもコードを感じ取る視覚を男が備えていないのなら、テーブルに突然|亀裂《きれつ》が入るのが見えたはずだ。男の腕から一センチも離れていない場所に金色の剣が突き立っている。弓子の背後では青になった信号がまた赤になり、人々が群れていたが、魔法がもたらした剣に気づく者はひとりもいない。  男は驚いたようだ。 「はじめて見た。手首が痙攣《けいれん》していたようだが……筋肉の弱電流でコードを組むとは聞いていたが古典魔法ってのはそうやって使うのか」 「貴方、いったいなにを言ってますの?」 「知識として魔法のことを知っているだけで、ぼくは魔法使いじゃないからね。百聞《ひゃくぶん》は一見《いっけん》にしかず、だよ」 「ならば説明してさしあげますわ。貴方の視界には映っていないと思いますけれど、この机にはいま剣が突き立っています。物質に穴を空けることができるこれは、もちろん人間にとっても危険なものです」 「すごいね」 「次は貴方に命中させます。ケガをしたくなければ避けるのが賢明な判断かと思いますわ」 「きみは一般人を魔法で攻撃するのか?」 「泣いても知らないと最初に申しましたわ」  男の胸の中心に向け、弓子はまっすぐに腕を伸ばす。今度は、避ける余裕があるようにゆっくりとコードを組んだ。ケガをさせるつもりはないが、正体不明のこの男に、古典魔法使いを甘く見ると痛い目に遭《あ》うという教訓くらいは持ち帰ってもらわねばならない。  弓子がコードを組みあげたとき、 「ううっ」  男は、胸の中央を掴《つか》んで突然うめきだした。魔法はまだ発動していない。完成しかけたコードを解消。弓子は男に声をかけた。 「どどど、どうしましたの?」  男は嗤《わら》ったようだ。胸から手を離した。 「なるほど。魔法も、こうやって気をそらすことができるとわかった」 「貴方、人でなしですわね」 「人でなしじゃないと言ったおぼえはないよ」 「今度は容赦《ようしゃ》しませんわよ」 「そうしてくれると助かる。双方が本気でやらないと、ゲームにならないからね」  いちいち気に障《さわ》る男だった。この期《ご》に及んで平然としているということは、なにかを用意していると考えるほうが自然だ。男は、服の下に防刃《ぼうじん》チョッキかなにかを着込んでいるのかもしれない。ならば、クリストバルドから受け継いだ剣のコードを存分に受けてもらおうではないか。一応、死なないように狙《ねら》うのは脚《あし》にしてやるが、ケガをしても泣いても一度は忠告したのだから知ったことではなかった。  男は悠然と座っている。  コインが赤い光を散らした。  弓子はコードを組みあげる。  女性の悲鳴が聞こえたのはそのときだ。  悲鳴を切り裂くように、大排気量のエンジンが猛然と唸《うな》る音が聞こえた。振り向くと、茶封筒をかかえた女性が、白線の上で尻《しり》もちをつくのが見えた。  車だ。歩道にいる。ウインドウガラスに灰色のスモークが貼《は》ってあるスポーツクーペだった。運転手の姿は見えない。路側帯に乗りあげた衝撃で、車体の底面から火花が散っている。倒れた女性のすぐ脇《わき》をスポーツクーペは雄々《おお》しく突進し、アスファルトにタイヤをこすりつけて横すべりする。 「剣と化せ我がコード!」  男に教訓を与えるはずだった剣のコードを、弓子は突進するクーペの前輪に向けて放った。命中だ。バーストした。クーペは、三回と半分、回転した。路側帯のコンクリートがはじけて茶色っぽい煙がまきあがった。甲高《かんだか》いクラクションが二回、間をおいて鳴りひびいた。  回転するクーペは、弓子から三十センチの距離をすり抜け、男のテーブルをはじき飛ばす。灯油缶を百個ならべて力まかせに叩いたような、大きな音がする。そのまま、タイヤを鳴らしながら歩道を駆け抜け、通りで左折、すぐに視界から消えた。  額面1ドルのコインは、でこぼこのアスファルトをころころと転がって、排水口に入り、落ちて、消えた。  あとに残ったのは、尻もちをついた女性と、助け起こそうとする男。ケータイで写真を撮っている男、興奮気味にケータイのボタンを押している男、迷惑そうな顔で駆け抜けようとする男、アスファルトにくっきりと刻まれた太いタイヤパターン。車の騒音に混じって人々のざわめきが聞こえる。ゴムの焦《こ》げる臭《にお》いに夏の風が混じっていた。 「残念だな。コインは失われてしまった。ゲームは引き分けということになるね」  服についた灰色の埃《ほこり》を払いながら男が言った。地面に転がったランタンは奇跡的に燃えていないようだ。揺れる炎にTESOの文字が照らされている。 「まあでも、魔法とて現実世界の現象に左右されるということがわかってよかった。逆もまたしか然《しか》りなんだがね」  曾祖父《そうそふ》から受け継いだ杖《つえ》に弓子は爪《つめ》を突き立てる。どうやら、また、弓子は相手をあなどってしまったようだ。それが無性に悔しかった。 「あなたは……正義の味方ですの? それとも悪者?」 「いいか悪いかは判断つかないが、混沌《カオス》か法《ロー》かと間われれは、まちがいなく法《ロー》側にいる人間だと言えるだろう」 「そんなかたがわたくしになんの用ですの?」 「せっかく日本に来たんだ。挨拶《あいさつ》をしておこうと思ってね。もしもきみが法《ロー》に属する魔法使いだと言うのなら、いつかまた会うこともあるだろうし。カルル・クリストバルドの子孫、ユミコ・クリスティーナ・イチノセ」 「貴方の名は?」 「リーヴァイ・マクレヴィ。以後。お見知りおきいただけるとありがたい」 「忘れませんわ」 「サービスでひとつだけ忠告させてもらうと、きみたちのところにやってきたあのデーモンは失敗を食べてくれる、幸福の魔法を顕現《けんげん》したような存在だ。つまり、それを悪用しようとした人間がどこかにいるということになる」 「デーモンはもういません。目の前にある問題を放っておくほどわたくしはお人好しではなくってよ」 「それはどうかな。欲望は、他者の欲望を欲望する。人間の欲望に限りはないよ」  本人が主張するように、マクレヴィという男の体から魔法的なものは感じられなかった。ただ、圧力というのだろうか。コードとは違う緊張感のようなものを弓子は感じた。この男は、これまで出会ったどんな魔法使いとも違う、強いて言うならば姉原《あねはら》美鎖《みさ》に近い存在である気がした。 [#扉(img/yg6f_0093.jpg)]   第4章 猛獣狩り [Safari]  弓子《ゆみこ》が銀座《ぎんざ》で占い師の男と出会った数時間前、森下《もりした》こよみは、ケータイの画面を見てずどどんと落ちこんでいた。  普段は入れていない電源を入れておいたのがまずかったのかもしれない。数十秒おきにぴろうんと音がして、メールフォルダに変なメールがやってくるのである。  それはスパムというものだと嘉穂《かほ》が解説してくれた。 「うう。誰かわたしのこときらいなのかな?」  こよみのケータイは、液晶画面右上のはしっこにミニミニの歯形がついている。ファイヤーフォックスのプーが齧《かじ》った跡《あと》だ。半透明で実体があるかどうかもわからないのに、プーの歯はケータイに噛《か》みつくことができたらしかった。  ケータイをあまり使わないこよみは、普段は電源を切ることにしている。ボタン操作が難しいのでメールはしないし、かけてくる相手は一緒に学校に来ているし、本当に必要なときの美鎖《みさ》には電源のオンオフは関係ない。  でも、なんとなく、きょうは朝から電源を入れておいた。そうしたら、プーがひょっこりと帰ってきてくれるんじゃないかという気がしたのだ。そんなはずはないと頭で理解してはいるのだけれど。  だいたい、プーがいなくなったからといって、こよみの生活はなにも変化していないのだった。朝起きて、お腹《なか》の上に丸まったもふもふが乗っていたのはたったの二日間のことで、特に習慣になっていたわけではない。  それなのに、プーがいなくなってみると、お腹の上がどこか寒いというかさみしいというか、胃の上あたりにハンドボールくらいの大きさの穴が空いてしまったようなかんじがするのだった。  弓子の魔法でプーは帰っていった。でも、帰るというのは、具体的にはどういう場所なのだろうとこよみは思う。ここではないどこかなのはたしかだろうが、それはいったいどこなのか。魔法を習っているにもかかわらず、こよみは、異世界というのがいまひとつ理解できていない。  こよみが魔法《まほう》で召喚するたらいも実は異世界からやって来ていたりするのだろうか。金《かな》だらいだからもともとこの世界にあるもののような気がするが、かといって、銅とか銀とかでできたたらいはこの世界にはないような気もする。  よくわからない。いろいろとよくわからないけれど、とにかく、こよみは朝からずっと憂鬱《ゆううつ》な気分だった。  五時間めの授業は体育だった。  なんでも、リョーサイケンボに運動神経はいらない、とかなんとか何十年か前のえらい校長が言ったという話で、白華《はっか》女子学院の体育の時間は非常に牧歌的である。  こよみがそのリョーサイケンボとやらになるかどうかは別として、過去視のコードで何十年か前に行くことがあったら、その人とは固い握手をしてもいい。本当のところは、下手《へた》に筋肉をつけて授業中に眠られたりケガをされたりするよりは、英単語のひとつもおぼえてもらったほうがいいのだろうけれど。  平穏無事な青空の下、初老の体育教師はきょうものんびりと笛を吹いていた。  こよみにとって、体を動かす授業は天敵みたいなものだ。速く動けばそれだけ転ぶ率が高くなるし、夏場の体育でジャージを着るわけにもいかないから、かならずどこかすりむいてしまう。  きょうの課目は走り高跳びだ。四百メートルトラックの中央では、転ばずに走るのが得意なひとたちが熾烈《しれつ》な戦いをくり広げている。  実際に跳んでいるのは数人で、ほとんどの生徒はこよみのように体育座りで見物していた。  教師が短く笛を鳴らす。  ひとりの生徒が、バーに向かって走りだした。坂崎《さかざき》嘉穂《かほ》だ。  キーボードに向かっているときと変わらぬ俊敏《しゅんびん》さで嘉穂は駆けだし、バーをまたぐように跳びこす。細身の体が宙に放物線を描いた。運動着に包まれた体が、白いマットの上でバウンドする。  バーは、二度三度揺れたあと、かこん、と音をたてて地面に落ちた。  どうやら、失敗のようだった。  勢いよく立ちあがり、嘉穂はマットをすべりおりる。めくれあがった運動着を整えながら、こよみのほうに向かって歩きだした。 「嘉穂ちゃん、惜《お》しかったね」 「べつに。まあ、これくらいかと」  嘉穂の表情は変わらない。まったく悔《くや》しくなさそうだ。  もしかしたら、バンジョーを弾くというやつ……いや違った、ウクレレ? マンドリン? あ、そうだ、三味線《しゃみせん》を弾くというやつをやったのかもしれない。こよみは思った。  嘉穂は、本当はできるのに、学校のことに関しては適当なところでわざとやめるようなところがある。そういうのは自分の役じゃないからやめときます、というか、今回のことでいうと必要以上の高さを跳べる自分を面倒くさがっているというか、優等生に要求される水準はクリアしたからこれ以上は目立たないようにしようというか、うまく説明できないけれどそんなかんじだ。  いつも精一杯で、それでもいろいろなことが人よりだいぶ下手なこよみには、嘉穂がなにを考えて手を抜いているのかよくわからない。  こよみだったら、跳べるバーは絶対跳ぶし、成功したらたぶん大喜びするし、爪《つめ》を隠したりしないし、面倒くさがったりもしない。もしも魔法で百五十センチのバーが跳べるようになるのだったら、その能力は絶対に手放さないだろうと思う。いまのこよみは、一メートルの高さだって跳びこえられないのだから。  嘉穂が失敗したあと、高跳びのバーは、こよみの身長よりも高くなってしまったようだ。  巨大ロボットみたいな高さでそびえるバーを、こよみは、羨望《せんぼう》とかあこがれとか、そんなものは出ないけど消えてしまうがいい! みたいな熱線とかがいろいろと詰まった目で見ていた。  となりに腰をおろしながら嘉穂が言った。 「ちゃんと練習すれば、あれくらいなら誰でも跳べるかと……まともな運動神経のついてる人間なら」 「ひどいよ嘉穂ちゃん。あたしにだって運動神経くらいあるよう」 「ないとは言ってない」 「いまのはぜったい言ってたと思う」 「神経なら昆虫にだってある。よって森下にも」 「それって、ぜんぜんなぐさめになってないと思うな。クモやバッタと比べられてもうれしくないもん」 「バッタは昆虫だけどクモは節足動物。運動神経がないのも個性のひとつだし、森下は誰ともキャラがかぶってないから大事にすればいいかと思われ」 [#挿絵(img/yg6f_0099.jpg)] 「嘉穂ちゃんはときどき不思議なことを言うよね」  嘉穂は答えない。  グラウンドの中央では、陸上部らしい生徒が仰向《あおむ》けになりながらバーを跳びこしている。ジャンプしながら見る空はどんな色をしているのだろう。嘉穂と並んで座りながら、雲ひとつない晴天をこよみは見上げてみる。初夏の太陽が肌に熱い。風に乗って、ピッという短い笛の音が聞こえてきた。嘉穂は無言だ。  こよみは言ってみた。 「プー、うまくおうちに帰れたのかな」 「さあ」  視線を横にずらすと、嘉穂も空を見上げていた。  こういうとき、根拠のないなぐさめを言わないのが坂崎嘉穂という少女だ。だから安心というか、逆に言うと、嘉穂をリクツで説得できればそのリクツは正しいと言ってもいいんじゃないだろうかと思う。  といっても、こよみが嘉穂を論破《ろんぱ》できるなんてことは、鼻でスパゲッティーを食べるくらい難しいのだけれど……。 「嘉穂ちゃん。あたし、なんかまだプーはいるような気がするの」 「なぜ?」 「自分でもよくわかんない」 「なら、それをまず考えてみるのがいいかと」  嘉穂の言うとおりだ。考えるのはあまり得意ではないが、順序立ててこよみは思考を積みあげてみることにした。  姉原邸《あねはらてい》で弓子が魔法を使うとプーの姿はかき消えた。見えない巨人がロウソクの炎に息を吹きかけたようにプーは消えてしまった。コードというか気配というか、そうしたものも同時に感じられなくなった。弓子も魔法を失敗することくらいあるだろうが、いまのところ、魔法が失敗したと考える根拠はどこにもない。  冷静に考えれば、デーモンを帰還《きかん》させるコードは成功し、プーは自分の世界に戻っていることになる。  だけれど、こよみは、言葉にできないなにか釈然《しゃくぜん》としないものを感じている。それはなぜだろう。このところ毎晩見る変な夢のせいだろうか。  正確にはわからないけれど、たぶんその夢は、魔女のライブラリに弓子がとり込まれた頃からはじまったのだと思う。  最初の頃はけっこうファンタジーっぽい夢で、ちょっぴり怖くて嘉穂が手をつないでくれていたらいいなあとかそんなかんじで、でもハリウッドの超大作CG映画をタダで見られるなんてラッキー! みたいなかんじだった。その後、ファンタジー映画と秋葉原《あきはばら》で起きた事件の内容がだんだん混じり合っていって、こよみ自身は夢と現実をこちゃまぜにするような性格だと思いたくないけれど、夢のストーリーは、こよみに都合が良いものに変化しはじめた。空を飛んだり、巨大なガマガエルを召喚したりするようになったり、今朝はたしか身長が十八メートルくらいに伸びて、丸めたポスターの先っちょから光線の剣《つるぎ》を出してチャンバラをしていた気がする。  そういえば、夢の中で次こそは考えておこうと思っていた必殺技の名前をまだ考えてなかった。次の夢までに考えないと、また、ぬいぐるみの嘉穂に変な文句を言わされてしまう。  気づくと、嘉穂が、ひとえまぶたの瞳でじいっとこよみを見つめていた。 「あ、考えてないよ。ぜんぜん考えてない。夢の中に出てきた嘉穂ちゃんの悪口なんて考えてない」 「森下の夢にはあたしが出るんだ?」 「嘉穂ちゃんの夢には、あたしとか美鎖さんとか登場しないの?」 「現実にあるものはあまり」 「そういう夢もあるんだねー」  そのときこよみはわかった。違和感の正体だ。  まちがいない。  あるものがなくなったからおかしかったのではない。ないものがなかったからおかしく感じていたのだ。 「そうだよ。ゆめ! ゆめ! ゆめ! 夢だよ嘉穂ちゃん! たらいが落ちてないの!」  嘉穂はわかっていないようだ。首をかしげて、無言でつづきをうながしている。 「あたし、夢の中で魔法を使っているっぽいのに、朝、枕元《まくらもと》にたらいが落ちていないんだよ!」 「落ちているほうがよほど問題っぽいかと」 「そうなの。大問題なの。お母さんが……って、そうじゃなくって! たしかに枕元にたらいがあると困るんだけど、あたし、変な夢を見ると魔法を使っちゃうみたいなの。でもでも、プーと一緒に寝てたときは、たらいがなかったの。だからってわけじゃないんだけど、弓子ちゃんの魔法を信用しないわけでもないんだけど、その……プーはまだいるんじゃないかって」 「ふうん」 「そ、それだけじゃだめかなあ」  嘉穂は、中途半端な長さのおさげを指に巻きつけて思案顔《しあんがお》をしている。薄茶色をした瞳《ひとみ》に、校庭と青空と真っ白なバーが映り込んでいた。 「ひとつ質問が。寝ているあいだに森下が魔法を使っているのは確実?」 「まちがいないと思う。朝起きたとき、鬼コーチに百メートルダッシュを何回もさせられたみたいに体がなってるから。コードを組むのってけっこう疲れるんだよ」 「なるほど。そういうことか」 「なに?」 「森下には言ってなかったけど、あたしのケータイにダウンロードしてた魔法発動コードが消去されてたことが。なにかのまちがいかと思ってたんだけど、そういうことなら説明がつくかも」 「説明がつくってなに? 嘉穂ちゃん、ひとりでわかってずるいよう」  嘉穂はひと呼吸置いたようだ。そして、難しい数学の解答を教えるときの先生と同じ目調で言った。 「ファイヤーフォックスは……プーは、魔法のコードを食べるのかも」 「へ? たべる? コード? たベる?」 「単なる推測だからまちがってるかもしれない。だけれど、そう考えれば全部の線が繋がる気が。森下がコードを組んでもたらいがない理由、あたしのコードが消えた理由、なにも食べないプーが大きくなって見えた理由、|一ノ瀬《いちのせ》が魔法を成功させたのにプーが帰還していないかもしれない理由……」  それに、プーがケータイを齧《かじ》っていた理由もわかる。  嘉穂のケータイにあったコードを食べたのだとすれば、こよみのケータイをエサだと思ってもおかしくはなかった。 「すごいよ、嘉穂ちゃん! やっばりプーはまだいるんだね!」 「あくまでも可能性。ぬか喜びしないほうが」 「でも、いるかもしれないんだったら探さなきゃ。どこかでお腹|空《す》かせてるかもしれないし。それにそれに、放っといたら他の人には危険かもしれないし。どうすればいいんだろう。迷い猫みたいに、ポスターをつくって貼《は》ればいいのかな?」 「だからプーは普通の人には見えないし」 「ええー、困るよう」  どうすればいいか、こよみには皆目《かいもく》見当がつかなかった。がらんとした校庭に、教師が鳴らすピッという笛が鳴り響いた。           *  嘉穂がネットで調べてくれたものの、プーがいそうな痕跡《こんせき》や噂話《うわさばなし》は見つけられなかった。  プーがまだこの世界にいて、しかも魔法発動コードを食べているのだと仮定しても、あるはずのない不思議なことが起きた記述なら探せるかもしれないが、あるはずのない不思議なことがプーに食べられたせいで起きなかったという記述は探しようがない。  街頭に設置されているカメラの映像を全部見ていけばもしかしたらプーの姿が映っているのかもしれない。だけれど見るのには時間がかかるし、そもそもカメラの画像にアクセスできるかどうかもわからなかった。嘉穂は、魔法のコードで検索できないかあとで美鎖さんに聞いてくれると言っていたけれど……。  その日の放課後、こよみと嘉穂は秋葉原までやって来た。ちょうどこよみの帰り道だったのと、プーが好きなケータイがいちばんたくさんあるのがこの街だと思ったというのが理由である。  木を探すなら森の中、針を探すなら砂の中、という……あれ、これは違ったっけ? とにかく、プーみたいなフシギセイブツは、秋葉原というコードの森の中に隠れているんじゃないだろうか。ただの勘《かん》だけど。  こよみや嘉穂に、目星とか目的の場所とかがあるわけではなかった。二分の一の確率で爆発する百個の爆弾があったとき九十八個以上は木端微塵《こっぱみじん》にする自信のあるこよみは、つまり、勘に従って行動すると百回のうち九十八回までまちがった場所にたどりつく計算で、いきなり秋葉原にやってきたのはたいへんたいへん危険な賭けのような気がする。でも、この街以上にプーが隠れていそうな場所をこよみは思いつくことができない。  午後の秋葉原は人がいっぱいだった。  道往《みちゆ》く人は、スーツ姿のおじさんだったり、縁と茶色の迷彩服《めいさいふく》を着た人だったり、バクダンとしか思えないような大きな荷物を持った人だったりとさまざまで、駅前ではメイドの格好をしたお姉さんがなにかを配り、空にはアニメキャラクターの看板がそそり立っている。その様子は、渋谷とも池袋とも違っていて、できれば夜には近づきたくないなあというかんじではあるけれど、年中無休の文化祭みたいでちょっとだけ楽しくもあった。  そういえは、『メン・イン・ブラック』みたいないかつい黒スーツの男につけ狙われていたような気もするのだけれど、秋葉原の事件が終わってからは姿を見ていない。  そういうこともあってこよみは、この街に来るのは怖かったのだ。だが、プーがいる可能性がいちばん高いのがここだというのなら仕方がない。 「号外でーす」  駅の前で男の入が配っていた紙を嘉穂が受け取った。 「さて、今度はなんのイベントを中止するのか」 「なにそれ?」 「この街には、クリスマスとかバレンタインの前になると、今年のイベントは中止になりますという号外を配る特殊な趣味の人が」 「へえ。変な人もいるもんなんだね」  どうせ中止にするなら、中間試験とか期末試験とかにしてくれればいいのにとこよみは思う。  嘉穂が持つ紙を覗《のぞ》きこんでみる。 「ええと……にっけい平均が二日れんぞく大幅のぞくしん。バブル後初のじょうしょう率? なにこれ。どういうイベント?」 「イベントじゃない。リアルの話題。本物の号外らしい」 「へええ」  こよみは感心してみた。  といっても、こよみには、なにか世間で起きているらしいということしかわからないのだけれど。 「森下、コードとか感じる?」 「よくわかんない。プーのコードはない……っていうか、美鎖さんが組んだっぽいのとか美鎖さんが組んだっぽいのとか美鎖さんが組んだっぽいのとかが、そこらじゅうで動いててよくわかんないの」 「それもそっか。秋葉だし」 「でもでも、美鎖さんのコードがあるってことは、プーがそれを食べに来てる可能性もあるってことだよね?」 「可能性としては」  ふたりは、とりあえず、たくさんケータイを売っているところを順に回ってみることにした。こよみは目を凝《こ》らして、嘉穂はケータイのカメラ越しで視線を周囲に配りながら、量販店を巡っていく。  ドーナツショップの前を通りすぎた。ついこのあいだまで道路にクレークーができていたはずなのに、このあいだ起きた騒動の痕跡はすでに修復されて残っていないようだった。  生きて動いている街は、まるで川のように、いいことも悪いことも、すべての情報たちを過去へと流していってしまう。  極彩色《ごくさいしき》の街にこよみは視線をさまよわせる。炎の色をしたクロワッサンを見つけた。 「嘉穂ちゃん! あれ! あの看板!」  指さした。嘉穂も振り向く。ういーんという音がした。ケータイのボタンを押して画像をズームしているのだ。  液晶画面に映った映像をしげしげと見やり、嘉穂は言った。 「あのポスターは、ブラウザのマスコットキャラクターかと」 「ええ、プーじゃないの? そうじゃなくても、偶然プーを見ちゃった人が描いた絵とか……」 「向こうのほうが古い」 「そっかあ。ざんねん」  思いつく限りの家電量販店を見て回ったけれど、プーの姿はどこにもなかった。秋葉原をぐるりと一周して、ふたりは、日比谷線《ひびやせん》秋葉原駅の前にある公園まで戻ってきた。  ビルに挟まれた公園は生暖かい風が吹いていた。  公園といっても、ベンチがあって水飲み場があって木が生えているだけで、遊具のようなものは見当たらない。殺風景な場所だ。生い茂る葉がつくる陰で、買い物に疲れた人や仕事をさばってるっぽいスーツ姿の人たちがおもい思いの格好で休んだり、あるいはタバコの煙を燻《くゆ》らせたりしていた。  こよみと嘉穂は、ベンチの近くにある植え込みの石垣に腰をおろした。  爪先からふくらはぎに向けて徒労感が昇ってくるのが感じられた。それは、苦手な運動をしたときともコードを組んだときとも違っていて、単に疲れるというか、胸の中心あたりにあるダウンな気持ちをさらに下のほうにぐーっと引っぱるようなそんな重たい疲労だった。疲れも一緒に出てしまうといいのにと思いながら、こよみは、胸いっぱいの息を吐いた。  公園のすぐ脇には、側面にアニメキャラが描かれた車が停《と》まっている。秋葉原の街中では気づかなかったけれど、ビルの壁面と緑しかないこの場所では、アニメキャラの笑顔がものすごい遠和感を発しているようだった。 「ねえ、嘉穂ちゃん?」  こよみは嘉穂に聞いてみることにする。 「なに」 「あたし、よくわかんないんだけど。あの車さん、絵を描いて走ると、なにか楽しいことがあるのかな?」 「アートは一種の人生だから、楽しむというものでもないかと思われ」 「そういうもんかあ。人生って、むずかしいね」 「森下……次は新宿か池袋でも?」 「ありがとう」  正直なところ、嘉穂は、プーがいると確信しているわけではなく、「それで森下が納得するならいいだろう」みたいなかんじで手伝ってくれてるんじゃないかとこよみは思う。わかりづらいけれど、嘉穂はとてもやさしい子だ。  でも、だからこそ、こよみにはわかることがある。  やっぱり、プーはいないのだ。  車に描かれた笑顔の下から太った三毛猫《みけねこ》がはいずり出てきた。大きなあくびをして、三毛猫はビルの隙間《すきま》へ走り去る。プーとは違う丸い尻尾《しっぽ》が揺れていた。だけれど、オレンジ色の流線と化したその姿は、どことなくプーに見えなくもなかった。ビルの隙間から、ふぎゃー、という、猫の鳴き声が聞こえてきた。  勢いをつけてこよみは立ちあがる。  足を地面につけたとき、じん、とした痛みが指の先を走り抜けた。こよみは元気よく言った。 「帰ろう。嘉穂ちゃん」  嘉穂は、無言のまま、ゆっくりと腰をあげる。西から射す光に目尻のほくろが照らされていた。猫の鳴き声はつづいている。こよみは、プーにはぜんぜん似ていない三毛猫をもう一度見ようと、ビルの隙間へと視線をめぐらす。  暗闇《くらやみ》の中に青白い炎が見えた気がした。 「嘉穂ちゃん! あそこ! なんか飛んでた」  嘉穂がケータイを構える。なにも映っていないようだ。こよみの視界にもいまはなにも見えない。  こよみは駆けだした。  正確には、駆けだそうとしたができなかった。突然現れた男の腹部にこよみは頭から突っ込んでしまったのだ。 「あなたです」  男は言った。こよみは見上げる。  巨大な男だった。  男は黒いスーツに身を包んでいた。黒いネクタイをきっちりとしめていた。岩を鑿《のみ》で削《けず》ったような顔に黒いサングラスをかけ、微笑ともしかめっつらとも判断のつかない難しい表情を浮かべていた。 「め、め、め……めんいんぶらっく、さん?」  こよみはわけがわからなかった。  たしかにこよみは、黒スーツの男に追われていたけれど、それは秋葉原の事件までのことだ。たぶんだけど男は魔法の関係者で、こよみというよりは弓子を追いかけている人のはずで、なにかのまちがいかついででこよみにも声をかけたはずで、それどころか目の前で溶けちゃったりした気もしていて、まあとにかく、魔女のライブラリの一件が落着したいまとなっては解決済みの問題だとばかり思っていた。  それともなんだろう。ジギタリスの筐体《きょうたい》である弓子が死ぬまで、黒スーツの男はずっと監視しているということなのだろうか。 「あのあの、あたしは弓子ちゃんじゃなくって、たぶん人違いだと思うんですけど……」 「あなたです」  男は繰り返した。  男が手を伸ばした。こよみの頭を包んでしまえそうなぶ厚いてのひらが迫る。こよみは動けない。急に手を引かれて、バランスを崩した。  嘉穂が、こよみの手首を握っていた。 「逃げれ」  こよみは走り出した。  なんだか夢と一緒の展開になってきたような気がする。走りながらこよみは考えた。聡史郎《そうしろう》も弓子《ゆみこ》も美鎖《みさ》のゴーストスクリプトもいないし嘉穂《かほ》はぬいぐるみじゃないけれど。おまけに、こよみの相手はタコ星人や怪獣じゃなくて黒スーツの男で、こよみはプーを探しに秋葉原までやってきていて、ついでに言うと、現実にはこよみはたらいの魔法しか使えないのだけれど。どこか夢と似ている。  そもそも、黒スーツの男は、敵っぽいわけでもなかったような、ジギタリスが復活したときにはむしろこよみを助けてくれたような気もする。それなのに、なぜ、いまになってたらいを召喚《しょうかん》するくらいしか能のないこよみを執拗《しつよう》につけ狙《ねら》うのだろう。さっぱりわからない。  でも、わからなくても物理的な男の脅威《きょうい》は現実のものだ。筋肉の鎧《よろい》に包まれた男は、着実な足取りでこよみたちを追跡している。巨大な男は歩幅も大きく、こよみが必死に稼いだ三歩の距離を男の一歩が埋めてしまう。  ローファーに包まれた足が熱っぽかった。歩きすぎで、あまり走れそうもない。嘉穂がこよみを引く力が、どんどんと強くなっていっている気がする。走りながら、嘉穂は、頻繁《ひんぱん》に左右に視線を配っている。  とりあえず、昭和通《しょうわどお》りにきてしまったが、見通しがいいせいでふたりは男から丸見えのようだった。逃げ場はない。彼我《ひが》の距離は着実に縮まっている。いかつい男と女の子ふたりの追走劇に割り込もうとする通行人は誰もいない。ただ、飲食店のきらびやかなネオンが高速で後方にながれていく。  影を踏みながらこよみと嘉穂は走り統ける。  まるで、三人は、時計の止まった映画の世界にいるようだ。プーの尻尾も、もうどこにも見あたらなかった。 「嘉穂ちゃん。や、やっぱり逃げ……なきゃだめなのかなあ」 「いきなり捕まえようとする相手はとりあえず信用しないほうがいいかと。それに、交渉するにしても一撃くらわせたあとのほうが」 「でもでも、あたし、もう走れないよう」  熱い息とともにこよみは言葉を吐きだした。  嘉穂の息もあがっている。 「じゃあ、たらいの準備、よろしく」 「へ? たらい? へ? なんで?」 「あたしは魔法使いじゃない。森下は走れない。召喚できるのはたらいだけ。なら、それでなんとかする方法を考えるべき」  足を回転させながら嘉穂はしゃべりつづける。 「たらいが召喚されるまでは魔法——召喚されてしまった金だらいは、すくなくとも、通常の物質と同じようにふるまう——たらいは位置エネルギーを持っている——地球の引力に引かれつつ、たらいは位置エネルギーを運動エネルギーに変換する——たらいの運動エネルギーを利用することは可能——」 「よくわかんないよう」 「森下、ちょっと黙って……たらいの物質はさまざまで、水が入ったたらいを呼ぶことも可能——たらいの中の水はたらいの一部とみなされている可能性——たらいから物理的に独立して作用するものが、たらい召喚コードで召喚できる可能性——それをたらいに入れておけば……」  嘉穂の考えることはリクツっぽくて難しい。 「入れるってなに?」 「煮えた油とかVXガスとか」 「よくわかんないけど、ここにいる人たちがみんな死んじゃう気がするんだけど」 「そうかもしれない」 「そんなのだめだよう」  こよみが召喚するたらいは、素材はある程度自由に選ぶことができた。でも、水を張ったたらいを召喚したのは一度だけで、そのときに体の中でどのようなコードが生成されていたのか、こよみはあまりよくおぼえていない。なにが出てくるかに関しては多分に運の要素が絡んでいて、銀や鋼《はがね》のたらいを召喚するときだって、なんとなくゴージャスなたらいがでたらいいなとか、なんとなく強そうなたらいがでたらいいなとか、そんなかんじで、体のあちこちに力を入れたりなんかしてコードを組んでいるだけなのだし。  男が近づいてきている。  こよみの足は限界だ。 「嘉穂ちゃん、助けてーって、叫んでみるのはどうかな?」 「たらいを横に飛ばすことは可能?」  こよみの提案を嘉穂は受け流したようだ。 「ど、どういうこと?」 「森下が召喚するたらいは突然宙に現れて落下する。だけど、召喚されるたらいが静止していなければならない理由はどこにもないかと。すごい勢いで飛んでるたらいだって、たらいはたらい」 「すごい勢いで飛んでるたらいをどうするの?」 「ぶつければいい」  なるほど。こよみは思った。  やったことはないけれど、それなら、もしかしたら成功するかもしれない。すごい勢いで動いているものをイメージしながらたらいを召喚すれば、できちゃったりするんじゃないだろうか。固いたらいをおもいきりぶつけれは、岩石みたいな男だってすこしはダメージを受けてくれるかもしれない。  こういうとき、相手が頑丈《がんじょう》そうな男であるのは逆に安心できた。ちょっとやそっとのことでは死んだりケガをしたりしなさそうだからだ。  すごい勢いのものってなんだろう。車? 飛行機? チーターとかは走るのがすごく速いと聞いたことがある。でも、こよみは、本物のチーターを見たことがない。見たことがないものはイメージできない。プーの動作も速かった。むかし追いかけられたデーモンも速かった。魔法っていうのはなんだか速いものが多い。  男が追いかけてくる。 「そこの角で曲がって、止まる」  嘉穂がつぶやく。  ふたりは立ち止まった。走っていては、はじめてのコードはうまく組めない。曲がった先には誰もいない。車の騒音に混じって、男の足音が聞こえてきた。  こよみは決めた。  弓子の魔法にしよう。剣のコードは、すごくすごく速い。同じ魔法だし、あれを真似《まね》すれば、びゅーんと飛ぶたらいが出せるかもしれない。  弓子のコードは腕の筋肉にレースみたいなきれいな模様が浮かびあがる。  ええと、それは、こうやってこうやって……よくわからないけれど、こよみは、たらいのコードを弓子っぽく組んでみることにする。そして、最後に、弓子はこう言うのだ。それも、やっぱり、真似しておいたほうがいいだろう。たらい召喚に使ったと聞いたら、悲しむかもしれないけれど。弓子ちゃんごめん。  黒スーツの影が見えた。こよみは胸いっぱいに息を吸いこむ。 「つるぎと化せわがこーど!」  体の中心で沸きあがった泡が、ぱちぱちと爆《は》ぜながら、胸と肩と腕と手とぴんと伸ばした指先を通り抜け、男へ向けてまっすぐにほとばしった。  直線となったこよみの指先から金色の剣《つるぎ》が姿を現し、目にも止まらぬ速度で宙を駆け抜ける。それは、中世の騎士が持っていそうな大振りの剣で、たらいのようにぴかぴかに輝いていて、それでいて半透明で、触れるものすべてを斬《き》り裂《さ》く破邪《はじゃ》の光をまとっているのだった。  男が角を曲がった。体の中心に命中。黒スーツの男が、爆散して消えた。  一瞬のことだった。  煙草の灰を散らしたときのような黒いひらひらが散り、風に巻かれて消える。 「え? え?」 「森下。いま、なに、やった?」 「え? あたし? なにもやってないよ。うん。なにもやってない。悪いことなんかしてないよ。嘉穂ちゃんは……なにが見えたの?」 「なにも。森下が呪文《じゅもん》を唱《とな》えたら、男が爆発した」  こよみは、右腕を伸ばしたまま固まっている。嘉穂は、男が爆発して消えた場所の地面をしげしげと見ているようだ。  黒スーツの男が、魔法でふっとんでしまったのか、それとも逃げたのか、もともと実体などなかったのか、そのへんのことはよくわからない。死んでしまったということもないと思う。たぶん。いまは、危険が去った、それだけでじゅうぶんだ。  地面と平行になったこよみの腕に、いままで感じたことのないしびれが残っていた。これは、たらい召喚のコードとは違うものだ。そういう気がする。動かない右腕をこよみは左手でひきずり下ろした。  記憶違いでなければ、記憶違いでなけれは、記憶違いでなければ! でもたぶん見まちがえなんじゃないかと思うけれど、金色の物体がものすごい勢いで飛んで行ったのでそう見えただけだとは思うけれど、剣のコードがいま、ここに、あった気がする。でもたぶん気のせいだと思う。森下こよみが組めるコードはたらい召喚だけのはずだから。  気づくと、首筋に、弱い電流が走るようなこそばゆい感触があった。オレンジ色の物体が、こよみの首のまわりをくるくると回っている。 「か、嘉穂ちゃん……」  嘉穂が振り向く。ケータイを取り出して、こよみをファインダーに収めた。そして、細い目を、ほんのすこしのあいだだけ、見開いた。  こよみの首でファイヤーフォックスがダンスを踊っている。わたがしのようなプーを、こよみは思いっきり抱きしめる。そして言った。 「プー! おかえり!」 [#扉(img/yg6f_0123.jpg)]   第5章 未知なる世界 [Explorer]  翌日の朝のことだ。例によって変な夢を見たこよみは、目覚めとともにそろそろと腕を動かし、お腹《なか》の上を確認してみた。  伸ばした指先に触れたのは、絹糸よりもずっとずっと細かい毛で、電気を帯びたようにぴりぴりしていて、ほのかにあたたかかった。どうやらそれは三角にとがった耳の先っぽだったらしく、指をずらして鼻筋を撫《な》でると、ぐるぐると電子っぽい振動がこよみのお腹を揺らした。日だまりの中でまどろむ仔猫《こねこ》の鳴き声のようだった。  こよみはタオルケットをはねのけ、プーに挨拶をする。 「おはよう。プー」  ふりふり。  プーが尻尾《しっぽ》を振って応《こた》えた。  枕元《まくらもと》にたらいは落ちていない。お腹の上にはプーがいる。ファイヤーフォックスのプーだ。プーが戻ってきたのは夢なんかじゃなかった。寝坊もしていないし、髪に寝癖《ねぐせ》もついていない。こよみにしては、びっくりするくらい上出来の朝である。このぶんだと、気をつけてさえいればきょうは転ばずに一日を過ごせるかもしれない。  こよみは勢いをつけて跳ね起き、タオルケットを踏んでベッドから転がり落ちた。学校に着くと、プーは教室を縦横無尽《じゅうおうむじん》に駆け回った。 「えへへへ」  床の上で、こよみはプーと顔を見合わせ、ひとしきり笑った。  プーは、カーテンにとびつき爪《つめ》を立てて昇り、かと思うと今度はカーテンをすり抜けてみたり、飛ぶのに飽きるとこよみの机に降りてきて、ノートの上で消しゴムを転がして遊んでいたりした。ちいさい脚がちいさな消しゴムをちょいちょいといじる姿は愛嬌《あいきょう》があってとてもかわいいのだけれど、こよみは授業にまったく集中できない。  嘉穂《かほ》は、あいかわらずケータイ越しにプーを見ているようだ。机の中にケータイを隠し、カメラのレンズでプーを追っている。  初夏の陽射《ひざ》しに照らされたプーの炎は虹色に輝いていた。開け放した窓から、湿度の高い空気がゆっくりと教室に流れこみ、プーの尻尾を揺《ゆ》らしていた。プーは、太陽の光を浴びて燃え上がるのかもしれない。こよみはそんなことを考えた。  畳休みになって、お弁当を食べながら、こよみは嘉穂に言ってみた。 「プーって、男の子なのかな。女の子なのかな?」 「そもそも性別という概念があるのかどうかという疑問が」  表情を変えずに嘉穂は答える。 「そんなのつまんないよう」 「なら、ひっくり返してみればいい。たまたまがついていれば男の子かと」 「たまたま?」 「そ。たまたま」  たまたまってなんだろうと考え、理解してしまったこよみは顔が火照《ほて》るのを感じた。たまたまというのはつまり、男の子が男の子である身体的特徴みたいなもののことだ。まあ、プーはデーモンだしファイヤーフォックスだし、こよみはお母さんなのだし、恥ずかしくなることはなにもないのだけれど……。  プーの脇《わき》に両手を差し入れ、こよみは、目の高さに持ちあげてみる。  サイズはミニだけれど硬そうな爪のついた二本の前脚をプーは備えていた。上半身を覆《おお》う毛は揺らめく炎のようで、もしかすると本当に炎なのかもしれないけれど魔法の炎なのでさわっても熱くはない。下半身にいくに従って炎がつくりだす陽炎《かげろう》が強くなり、輪郭《りんかく》がぼけてどこまでが体なのかわかりづらくなっていく。後ろ脚があるのかどうかは見ただけでは判断がつかないし、脚のあいだにたまたまがあるかどうかもわからない。  そうしたぼけぼけの後ろに、青白く燃える尻尾がなびいているのだった。 「よくわかんない」  じいっとプーを見ながらこよみは言った。偶然近くを通りすぎたクラスメイトが、ぎょっとした目でこよみを注視した。  身をよじって、プーがこよみの両手から脱出する。 「あ、ちょっと待って。プー!」  プーは言うことを聞かない。こよみの頭上でくるりと輪を描き、窓から飛び出して違う校舎に向け疾走《しっそう》をはじめる。 「……なるほど」  ケータイを構えていた嘉穂がつぶやいた。 「どうしたの、嘉穂ちゃん。なんでプーが飛んでったのかわかるの?」 「あっちの方向は視聴覚室。中にあるPCで、あたしが組んだ魔法発動コードが動作中」 「それって、食べるために行ったってこと?」 「おそらくそうかと思われ」 「ごめんなさい」 「べつに。練習用だから」 「プー、食いしんぼうなのかな。あたしが組んであげるコードだけじゃ足りないのかなあ」  嘉穂はさあという顔で手を広げてみせる。プーの姿は見えない。午後の授業の開始を告げる予鈴が、ほどよくぬくまった教室の空気をきりりとひきしめた。  フシギセイブツすなわち異世界からやってきたデーモンであるプーは、気まぐれで遊び好きだ。停止しているのは寝ているときだけで、誰にも見えない尻尾を振って宙を駆け巡り、誰も存在を知らないコードを食い散らかす。ある生徒はケータイの電話帳のデータがきれいさっばりなくなってしまったし、あるクラスは視聴覚室での授業中にすべてのマシンが誤作動した。美鎖が秋葉原でこっそり動作させている魔法発動コードだったらいくら食べてもむしろ世の中のためという気がするけれど、プーはケータイを囓《かじ》ったり、普通のプログラムを食べようとしてマシンを誤作動させてしまうのだった。  プーに悪気があるわけではない。プーはデーモンなのだ。行動原理を人間の常織で推《お》しはかることはできない。  だからプーはただそこにいるだけで人間の社会に混乱を引き起こす。知ってしまったら知らんぷりするわけにはいかないし、だからといってこよみにプーがやらかしたことの後始末をできるわけもない。  そんなこんなで、学校から帰宅したこよみは、へとへとになっていた。  明日、時間があったら猫じゃらしかなにかを百円ショップで買おうとこよみは思った。デーモンが猫じゃらしに反応するかどうかはわからないけれど、それでプーの気を惹《ひく》くことができれば、周囲にかける迷惑が減るかもしれない。  きょうは早く寝てしまおう。こよみは服を着替えベッドに体を投げ出した。 「プー、おいで」  螺旋《らせん》を描きながらプーが降下してきた。  反応を見る限りでは、こよみがプーのことを好きなのと同じくらい、プーはこよみのことを好きでいてくれているような気がする。もしかすると、こよみのことをプーはケータイの付属品かなにかだと思っているのかもしれないが、まあ、好きなものの付属品でもこの際よしとしよう。  タオルケットに降り立ったプーは、くんくんとにおいを嗅《か》ぎ、突然、棒立ちになって部屋の外に飛んで行った。 「プー、どこ行くの!」  プーはまったく意に介していないようだ。五分ほど経つと、満足げに尻尾を揺らしながら帰ってきた。  こよみのお腹《なか》の上でクロワッサンの形になり、ぐるぐると振動音を出してくつろいでいる。  そして、隣の部屋から「ぎゃあ」という父の悲鳴が聞こえた。  たぶんだけれど、プーが父のPCになにかしでかしたのだろう。容易に想像がついた。お父さん、内緒でフシギセイブツを飼ってごめんなさい。こんど肩を叩いてあげるから許してね。こよみは心の中であやまっておく。 「プー、お父さんのコンピューターにはコードは入ってないんだよ。お腹|空《す》いたなら。たらいのコード、食べる?」  プーは目を閉じた。寝ることにしたようだ。こよみのお腹の上からもう動かない。 「おやすみ。プー」  言いながら、こよみはタオルケットにもぐもぐした。  明日は美鎖のところへ行く日だ。いったい、プーとこよみになにが起こっているのか、聞いてみることにしよう。           *  次の日、こよみと嘉穂《かほ》は、プーを連れて姉原邸《あねはらてい》を訪れた。  正確に言うと、プーは勝手にこよみについてきてくれているだけでどこかへ飛んでってしまう行動を妨《さまた》げることはできないから、連れているというのには語弊《ごへい》があるのだけれど。  来る途中の百円ショップで買った猫じゃらしを、歩きながらこよみは振ったりしている。でも、プーの反応はいまひとつだ。猫じゃらしは無視するのに、嘉穂が構えているケータイにはしょっちゅう巻きついたり、前脚でかりかりしたりしている。  姉原邸の門の上には、黒猫のかたまりが丸まっていた。  かたまりは、こよみが振る猫じゃらしに跳びつきたくて仕方がないのだけれど、戦闘力のわからないなにかがいるから我慢《がまん》しているかんじだった。魅力的に揺れる猫じゃらしとプーを交互に見ては、尻尾をぴんと立てたり背中の毛を逆立てたりしていた。  プーもかわいいがかたまりもなかなかである。ここは、引き分けということにしておこう。こよみはうんうんとうなずいてみたりする。  屋敷に入った。  プーを見せても、美鎖《みさ》に驚いた様子はなかった。びっくりしてくれるかと思っていたのにちょっとだけ残念だ。彼女のことだから、こうなることを薄々知っていたのかもしれない。美鎖の興味は、帰還したデーモンより、むしろこよみが買ってきた猫じゃらしに向かっているようだ。  すこしだけ教師っぽい口調で美鎖は言った。 「猫が猫じゃらしにちょっかいを出すのって、獲物《えもの》の動きに似ているからよね。ではここで問題です。デーモンをじゃらすには、なんの動きに似ているものが必要?」  脳みそを高速回転させてこよみは必死に考えてみた。  プーは、美鎖の仕事部屋を好き勝手に飛び回っている。 「で、でーもんの獲物の動き……ですか?」 「正解。じゃあ、今回の場合、具体的に言うとそれはなに?」  こよみにはわからなかった。嘉穂が無言で手をあげた。 「はい。嘉穂」 「……魔法発動コードかと」 「はい。正解。よって、コードを食べるデーモンをじやらすにはコードが必要なんじゃないかと思うわよ。ポリエステルでできたふわふわじゃなくて」 「でも、どうやって?」 「そうねえ」  美鎖は細いおとがいに指をかけて思案する。そして、バナナハンガーとかプラスティック製の揺れる双葉《ふたば》の玩具《おもちゃ》とか洗脳装置みたいなマッサージ機が雑然と置いてある机の上をかきまわし、ひとつのちいさな部品を取り出した。 「これを使ってみますか」 「な、なんですか、それ?」 「ワンタイムパスワードのチップよ。ネット銀行から送られてきたの。ちいさいけど、電源もCPUも入ってるしちょうどいいと思うわ」 「それ、大事なものでは?」 「だいじょうぶよ。わたし、ネット銀行のアクセスにパスワードなんて使ったことないから」  嘉穂の問いに、美鎖はにまりと笑って答えた。  美鎖がつくったのは、猫じゃらしの棒の一方に小ぶりの電子部品を取りつけたものである。電子部品にはごくごく簡単な魔法発動コードが組み込んである。 『デーモンじゃらし(仮名)』をこよみが試《ため》しに振ってみると、それまで気ままに部屋の探索をしていたプーが尻尾を振って突進してきた。そのまま、柄の部分に絡みついて螺旋《らせん》状に回転している。すごい反応だ。  美鎖が言うには、プーは、自身の近くで実行されるコードをエネルギー源としているらしかった。人間だと食べているということになるが、むしろ、蒸気機関車が石炭を燃やす仕組みに近いらしい。だから、デーモンを異世界へ帰還させるコードを組んでも、プーはそれをエネルギー源としてこの世界にとどまってしまうのだ。  プーを帰還させるためにはコードが必要だ。だが、プーがいなくならないと、プーを帰還させるコードはうまく作動しない。プーがそこにいなけれは、プーを帰還させるコードはうまく動作しない。プーがそこにいなければ、プーを帰還させるコードは動作する意味がない。  美鎖は言った。 「コードを使って帰還させる手はまったくのお手上げね。もっと剣呑《けんのん》な手もあることはあるけれど、今の時点で考えることじゃないと思うわ」 「じゃあ、プーはここにいてもいいんですか?」 「かまわないと思うわよ。弓子にもどうにもできないだろうし」  なんだかよくわからないけれど、プーはこのまま手元に置いておいてもよいらしい。 「よかったね! プー」  言いながらこよみはデーモンじやらしを振る。大量の光の粒子を尻尾から放出しながら、プーはじやらんの軌跡を追いかける。目測を誤って壁に激突し、そのままずずずとずり落ちていった。           *  週明けの月曜日もプーはかわいかった。  こよみと嘉穂とプーは、ふたりプラス一匹で放課後の屋上へ来ていた。  自由に空を飛ぶプーを見て、自分も飛んでみたいとこよみがつぶやいたのがきっかけである。正直なところ、こよみは高いところがあまり得意ではないのだけれど、飛行には位置エネルギーが必要だと嘉穂に説得されてしまったのだった。  ぴゅうぴゅうと風の鳴る空で、プーは凧《たこ》のように気ままに浮かんでいる。  こよみは、転落防止の金網ににじり寄り、息を呑《の》み込み、片目だけ開けて下を見て、目が眩《くら》んで両目をつぶった。 「……ま、またにしよっか?」 「空を飛ぶ魔法。失敗すると死ぬ」  こよみの脚は震えっぱなしだというのに、嘉穂はすずしい顔だ。飲みかけの炭酸飲料を手に、ひとりでくすくすと笑ったりしている。空飛ぶ魔法をこよみが練習してみようと思いたったのには理由があった。  プーがコードを食べているという美鎖の説明が正しければ、もしかすると、こよみは秋葉原《あきはばら》で黒スーツ相手に本当に剣《つるぎ》のコードを使ったのかもしれないのだった。  美鎖によれば、たらい召喚《しょうかん》の魔法は二段階になっているらしい。一段階めに普通にコードを組み、二段階めにそのコードをたらい召喚のコードに変換する。  つまり、こよみは、コード変換コードともいうべき魔法をいつも無意味につかってしまっていて、その無意味な魔法の部分もプーが食べてしまった結果、最初に組もうとしたコードが現れたのではないかというのだ。  つまり、プーが余計なものを食べてくれれば、こよみはちゃんとした魔法が使えるかもしれないのである。  もちろん、コードがたらいに変換されないからといって、望んだ魔法をすぐに使えるようになるわけではない。魔法発動コードというのは、目的に適合した正確なコードを組まなければ望みの結果はでないのだ。  いままで、なにをやってもこよみはたらい召喚になっていたので、他の魔法もフィーリングでなんとかなるんじゃないかと軽く考えていたけれど、古典魔法の世界はこれはこれでけっこう奥が深いらしい。  そういえは、美鎖は、学校の勉強と同じくらい魔法の修得は難しいといちばん最初に言っていたっけ。 「やっぱり無理だよう」  金網にしがみつきながらこよみは言った。金網は建物の端っこに近くて怖いのだけれど、しがみついていないともっと怖かった。風に煽《あお》られ金網ががたがた震えている。制服の裾がふくれあがり、体ごと飛んでいってしまいそうだ。プーは、急降下し、金網の網目をジグザグに縫って遊んでいる。  風に負けないぎりぎりのちいさな声で嘉穂が言った。 「たらいで考えれば? たらいを落とすんじゃなくて放りあげるかんじで」 「できないよう」 「飛ぶと思うから難しい。最初は浮くくらいで」  嘉穂はやる気だ。といっても、魔法発動コードを組むのはこよみなのだけれど。  まあでも、浮かぶくらいなら、もしかしたらできるんじゃないかという気もした。まぐれとはいえ剣のコードが組めたのだ。浮けたっておかしくはない。  こよみは全身の神経を集中させる。なんだっけ。以前、子供の聡史郎《そうしろう》に教えてもらったやつだ。足が地面につく前にもう一方の足を出すというやつ。あれをやればいいんじゃないだろうか。あくまでもイメージの上でならできるかもしれない。  右脚にコード、イメージの上で持ちあげて、左脚にコード、イメージの上で持ちあげる。全身の神経を両脚に集中。泡立ったコードが、足の裏からふくらはぎを抜けて大腿部の筋肉へと突入していくのがわかった。産卵するときの鮭とか龍とか、とにかくすごい勢いで昇っていきそうなものっぽいコードだ。しょわしょわしょわと足の筋肉が爆ぜていく感覚がする。これは、もしかするともしかするかもしれない。 「えい!」  こよみはコードを組んだ。  嘉穂の手元で、ぽん、と、なにかが爆発する音がした。嘉穂が持っている缶から真っ白な煙が立ちのぼっている。 「な、なんにもしてないよ。あたし、なんにもしてない」  屋上の風が白い煙を吹き飛ばした。嘉穂は無事なようだ。  煙をあげた炭酸飲料をひと口含み、嘉穂はぼそりとつぶやいた。 「……気が抜けてる」 「ご、ごめんなさい!」 「いや、これはこれでなかなか」  こよみの頭上で、プーがくるりと回転した。           *  きょうもプーはかわいい。  その次の日。人気《ひとけ》のなくなった放課後の教室で、こよみと嘉穂とプーはふたたび集結し、秘密の会議を開いていた。  嘉穂いわく、もともとこよみはたらい召喚コードしか自力で組めない。召喚以外の魔法をいきなり使ってみようとしたのが失敗の元かもしれない、とのことだった。逆に言えは、たった一種類とはいえ召喚魔法ならこよみは使えるのだから、召喚する対象物を変えてみるところからスタートすればうまくいくのではないか、ということになったのである。名づけて、千里の道もたらいから作戦。  こよみと嘉穂が真剣に話し合っている頭の上で、プーは蛍光灯|避《よ》けのスラロームをして遊んでいる。プーの尻尾から散る光の粒子が蛍光灯の光に当たると紫色のハレーションを起こしてとてもきれいだった。 「なにを召喚すればいいんだろう」  こよみの質問に嘉穂が答えた。 「バナナとか?」 「ええー、そんなのカッコ悪いよう」 「中身の入ってるバナナにすれば」 「バナナなんかやだ」 「でも、最初は簡単なもののほうが成功する可能性も高くなるかと思われ」  と言いつつ、嘉穂は、なんとかダイエットとか書かれているこれまで見たこともない怪しい炭酸飲料を手に持っていたりする。  試しに嗅《か》いでみたら、サロンパスをお湯で溶かしたような強烈なにおいがした。優等生の嘉穂は、こよみが失敗したときの準備も万端なのだった。 「そういう問題じゃない気がする。あたし、もっとカッコいいのとか、かわいいのとか、そういうのがいいの」  嘉穂はすこし考えたそぶりをした。 「……ぬいぐるみとか?」 「そう、そういうの! そういうもふもふなのがいい!」 「じゃあ、やってみれ」  机を寄せた教室の中央にこよみは立ってみた。  これから組むコードはそれほど難しくはない。いつも組んでいるたらいと同じ召喚魔法だ。空を飛ぶコードのときのようなフィーリングではなく、いつものコードの組みかたをすこしだけ変えてやればいい。ゴージャスで銀のたらい、強そうで鋼《はがね》のたらいなのだから、もふもふをイメージして体のあちこちに力を入れてみれは、もふもふの……たぶんそんなたらいは存在しないから、くまさんとかうさぎさんとかぶたさんが現れてくれるに遠いない。  こよみは精神を集中する。  もふもふ。もふもふ。やわらかくってあったかくて顔をうずめるとお陽さまのにおいがするもふもふのコード—— 「えい!」  きのうと違って、きょうはなにも出なかった。  たらいも出なかった。  プーは、こよみの頭上をくるくると回っている。 「ええと……しっぱい?」  校庭から声がしたのはそのときだ。 「誰だー!」  年配の男性の声だった。ずいぶんと怒っているらしく、「だ」の部分の発音が完全に裏返っている。  こよみと嘉穂は顔を見合わせた。ふたりの顔のあいだに、仲間に入れてとばかりにプーが舞い降りてくる。  ふたりは窓際《まどぎわ》までしゃがんで進み、窓の下のほうから顔だけ出して校庭を覗《のぞ》いてみた。トラックの端のほうで、初老の教師が禿頭《はげあたま》を真っ赤に染めて仁王立ちしている。手に持っているのは大きな黒板消しだ。目を凝らすと、頭から肩にかけて、天ぷらをつくるときのように白い粉がまぶしてあった。 「あ、あれ……あたしの魔法かなあ?」  こよみは、息を止めてしゃがみこんだ。嘉穂もとなりに腰を下ろす。 「……森下《もりした》」 「な、なに? 嘉穂ちゃん」 「おそらく、今回の魔法は成功したかと」 「なんで?」 「たしかに、あれはあれで、一種のもふもふと言えなくもないかもしれない」  こよみと嘉穂とプー、ふたりと一匹は、誰にも見つからないようにこそこそと逃げ出した。           *  次の日もプーはかわいかったけれど、とりあえずそれは置いておいて、森下こよみは全力で走っていた。  嘉穂はこよみのちょっと先を走っている。微妙に待っていてくれるけれど、こよみが追いつくまで待ってくれるわけではなく安全圏を保っているかんじだ。  場所は銀座《ぎんざ》の姉原邸。こよみはいま、美鎖の仕事部屋からスタートを切り何度か転びそうになりつつ嘉穂に支えてもらってバランスを取り戻しダンボールの渓谷《けいこく》を驚異的なタイムで走り抜け玄関まで到達したところである。  嘉穂がドアを押し開ける。  隙間《すきま》ができた。嘉穂が脱出する。頭上で舞っていたプーが楽しげに通り抜ける。こよみは、走っている勢いを殺さず、ドアの隙間に体をねじこんだ。肩がこすれて痛い。喉《のど》も熱い。空気が欲しい。でも、こよみはまた走る。  姉原邸の庭には不気味な草が生い茂っている。足を取られないよう、こよみは、精一杯足を前にくり出す。  こよみの後方で半開きだったドアが勢いいよく開いた。美鎖だ。  長い脚《あし》を活かして美鎖は疾走する。すぐにこよみに追いついた。 「ほら、こよみ、はやく早く!」 「こ、これ以上無理ですよう」  こよみが安全だと判断したのか、嘉穂はもう鉄製の門のところにいて、こよみたちを待って足踏みしている状態だ。こよみは、美鎖に背を押されてなんとか速度を維持している。  門までたどりついた。  人影がある。長身だ。聡史郎だった。いま学校から帰ってきたところらしい。 「お、おじやましてます」  走りながらこよみは挨拶《あいさつ》をする。門をくぐり抜けた。美鎖がつづく。 「おかえり聡史郎。きょうもいい天気ね」 「天気だと? なに言ってやがる」 「ところで急なんだけど、逃げたほうがいいと思うわよ」 「逃げる? 自分の家でなにから逃げるんだ?」  美鎖は答えない。へばりだしたこよみの腕をぐいぐいとひっぱって門から距離を取った。 「おい、ちょっと! 姉さん!」  姉原邸の重厚なドアがふっとんだのはそのときだ。魔法発動コードで何重にも防御された一枚板のドアは、巨人に投げ上げられたかのように宙を舞い、怪しげな庭園に突き刺さってびりびりと震えた。  聡史郎が目を剥《む》いた。  入口のくらがりから姿を現したのは巨大な顎《あご》だ。パワーショベルほどの大きさの口がばかりと開き、何重にも詰まった牙《きば》から涎《よだれ》がしたたる。触れたものすべてを腐蝕しそうな息が銀座の大気と混じり合って化学反応を起こす。咆哮《ほうこう》にも似た呼吸音が、喉の奥から聞こえてきていた。  そいつは、四本の脚で大地を踏みしめ、白いウロコで全身を覆《おおい》い、真《ま》っ赤《か》な瞳《ひとみ》で正面を睥睨《へいげい》する。二メートル以上ある尻尾を振り回して前進をはじめた。  巨大な、白い、ワニだった。 「な、なんだこりゃ……」 「そうしろー、本気であぶないから逃げたほうがいいわよう」  こよみの腕をつかんだまま美鎖が声をかけた。聡史郎は鉄製の門の前で棒立ちになっている。銀座の街中に突然姿を現したアルビノの巨大ワニを、脳が受け入れることを拒否しているらしかった。  ワニは、聡史郎を獲物と認識したようだ。顎を開いて突進する。 「姉さん! これはなんの冗談——」 「剣《つるぎ》と化せ我がコード!」  聡史郎のぼやきを凜《りん》とした声が遮《さえぎ》った。同時に、金色の剣が飛来し、ワニのウロコに衝突して火花を散らす。ワニはひるんだようだ。突進する方向がわずかにずれた。巨大な体躯《たいく》が聡史郎の横を高速で通過していく。 「剣と化せ我がコード!」  もう一度剣が降ってきた。  金色の剣が狙ったのはマンホールの蓋《ふた》だ。魔法の剣は金属の蓋を真っ二つに切り裂き、適路の中央に大きな落とし穴をつくりだす。勢いを殺さぬまま、巨大ワニは、マンホールの中へ落ち込み消えていった。  すこし遅れて、底のほうで、ぼちゃんと水が跳ねる音がした。  美鎖に腕を支えられた状態でこよみは門のところまで戻ってきた。脚がふるえてうまく歩けない。なんだか最近、走ってばかりのような気がした。  聡史郎が言った。 「もう一度聞くぞ。姉さん、これはなんの冗談なんだ?」 「冗談じゃないわよお。聡史郎、本当にピンチだったのよ」 「白いワニ伝説の元はこれか……」  嘉穂がぼそりとつぶやく。 「んなわけねえだろうが!」 「ご、ごめんなさい! いつも本当に」  こよみは聡史郎に向かって頭をさげた。不機嫌《ふきげん》の色をたたえた瞳は、こよみではなく美鎖のほうを向いているようだ。 「いったいなんだってんだ。ったく変なヤツばかり揃《そろ》いやがって。いつもいつもやっかいごとを持ちこみやがる」 「まったく同感ですわ」  声の主は弓子《ゆみこ》だ。銀の杖を詩った銀髪の少女が、向かいのビルの上からふわりと飛び下りてきた。  こよみはもう一度頭を下げる。 「ご、ごめんなさい!」 「悪いのは美鎖です。貴女がいながらこの有様《ありさま》はなんですの? 偶然わたくしがいたからよかったようなものの、一般市民に被害が出たらどうするのです」 「そうは言っても、病《やみ》みあがりなのよねえ」  美鎖はまだ大きく息を切らせている。回復はこよみよりも遅いくらいだった。六本木《ろっぽんぎ》で美鎖が大ケガをしたときから、たいして日にちは経《た》っていない。 「あのあの……あたしが全部悪いんです。せっかくたらい以外の魔法が使えるようになったから試してみようと思ったんです……」 「なにをですの?」  銀髪の少女を、こよみはちらりと見上げる。 「……言っても怒らない?」 「怒りませんわよ。早くお言いなさい」 「弓子ちゃんの……剣のこーど」 「仮に剣を召喚するにしても、白いワニと剣はだいぶ違うものだと思いますけれど」 「あのあの、それでも、一回は成功したんだよ。たぶんだけど。それで、真似っこばっかりじや悪いと思って、金色じゃなくて白い剣にしようと思ったの。あと、ぎざぎざとかいっぱいついてて、強そうな剣になったらいいなあ。とか」 「それでワニを召喚したんですの?」 「……ごめんなさい」 「対象物、気温、明度、使い手の体調、これらが変わればすなわちコードは変化します。古典魔法はそれほど簡単なものではなくってよ」  元からちいさな背をできるだけちぢこまらせ、こよみは、弓子の話を聞いていた。弓子の言うことは正論すぎてすこしの反論もできない。 「おまえら、天下の往来《おうらい》で魔法とか平気で口に出してんじゃねえよ。この家の住人のおれまで変人の仲間だと思われるだろうが」 「人に命を助けられておいてその態度はないと思いますわ」 「やかましい。銀座のど真ん中で命を助けるもクソもあってたまるか。そんなに暇なら、サバトなんかせずに区民プールでもなんでも行ってろ。夏の太陽で脳を殺菌してもらえ」 「なんですって!」  弓子と聡史郎が一触即発《いっしょくそくはつ》になったとき。ふたりのあいだに大柄な男が割り込んできた。  男は、大柄で、腹がつきでていて、鼻の頭と頬《ほお》が赤く染まった白人だった。 「Return it to me!」  男は叫んだ。その頭上でくるくるとプーが舞っている。こよみは、ぽかんと、口を開けた。 [#扉(img/yg6f_0149.jpg)]   第6章 ひとりはみんなのために、みんなはひとりのために [Opera]  突然押しかけてきて英語でまくしたてている男は、手違いで荷物を送ってしまったから返せとかなんとか言っているようだった。 「You should tell me your name before anything, shouldn't you?」  美鎖《みさ》がきり返すと、男は三倍くらいの英単語をぶつけてくる。  自分は怪しいものではないし、金は払うし、この取引《とりひき》はあなたにとっても損がないどころかウインウインの関係を築くことができるただひとつの解決策だ等々、怪《あや》しい人間が口にする常套句《じょうとうく》がブイヤベースみたいに詰まっていた。  英語で応対する美鎖を、胸の下くらいの位置から、こよみが羨望《せんぼう》の目で見上げている。  こっちは断ったというのに勝手に送りつけておきながらあとから怒鳴り込んできて返せとは無茶な話だった。返すこと自体はやぶさかではないものの、目の前にいる白人が本当の送り主かどうか美鎖は確認する術《すべ》を持っていないのだ。考えようによっては、新手《あらて》の詐欺《さぎ》という可能性もあった。  まったく世の中は常識のない人間が多い。 「Bring it back, please!」 「OK. オーケー。わかったわよ。わかりました。返すわよ」  だけれど、美鎖は、段になったシャツの腹に汗のしわをつくって懇願《こんがん》する男に、ケータイを返してあげることにした。  美鎖は、一度家の中に入り、仕事机の上に放置してあったケータイを箱ごと持って門まで戻ってくる。  男が、美鎖の手からダンボール箱をひったくった。中からケータイを引きずり出す。放置しておいたので電源が切れたらしく、液晶画面にはなにも映っていない。  震《ふる》える手で、男はケータイ側面のスイッチを押した。そして天を仰《あお》ぎ、英語の発音で、ゴッドとかシットとかビッチとか、複数の罵声《ばせい》を宙に放りあげた。  ケータイの画面には、いまも、割れた卵の映像が映っている。  男は美鎖にくってかかることにしたようだ。赤ら顔を紫色に変色させ、返せ戻せ「it」が必要だどこへやったかならずあるはずだ隠してもためにならないぞおまえは「it」の価値がわかっていないいくらでも金は払うpleaseとかなんとか騒いでいる。  美鎖の横には、早口で叩《たた》き出されるネイティブの英単語をまったく聞きとれず、口を半開きにして男を眺めているこよみがいた。その頭の上にいるのは、ロシア風の帽子の形になって、後頭部で尻尾を揺らしているファイヤーフォックスだ。  美鎖とファイヤーフォックスの目が合った。  ファイヤーフォックスがミニミニのあくびをする。  異世界のデーモンも男に呆《あき》れているような、なぜかそんな気がした。  国の前にいるのは、あからさまに魔法と関係のない男だった。こよみの頭上でまどろむファイヤーフォックスの姿を知覚できないようでは、残念ながら、欲しがっている「it」を手に入れることは不可能だ。  そもそも、デーモンは人にあげたり返したりできるようなものではない。魔法発動コードによって無理矢理使役するものだ。「it」であるファイヤーフォックスが、自主的にこよみについてまわっているのは非常にめずらしい現象であり、異世界の思考ルーチンを持つファイヤーフォックスがなにを考えているのかは美鎖にもさっぱりわからない。  現状で、ファイヤーフォックスがこよみと一緒にいることを選択している以上、欲しいのならコードによって力ずくで支配し奪わなければならないのだが、一般人の男にはそれができない。ならば、デーモンを手に入れる資格もないと言えた。  単純なことだ。金額の問題ではないのだった。  ひとしきり騒ぎ、美鎖が取り合わないことを知ると、捨てゼリフを吐《は》いて男は去っていった。ファイヤーフォックスの脱《ぬ》け殻《がら》であるケータイを後生《ごしょう》大事に抱えて。  男の姿がてのひらサイズくらいになった頃、もうしわけなさそうなちいさな声でこよみが言った。 「あのあの、な……なんて言ってたんですか? 外人さん」 「最後のアイルビーバックだけはわかった」  嘉穂《かほ》がぼそりとつぶやく。 「ファイヤーフォックスの卵を返せって」 「プー、返さなきゃならないんですか? えええ、どうしよう」  こよみは涙ぐんでいるようだ。下のほうにあるこよみの顔に向かって、美鎖は微笑をつくってみせた。 「だからもう返してあげたわ。送られてきたケータイ」 「ケータイは脱け殻では」  嘉穂がたずねる。 「自業自得《じごうじとく》よ。自分が探してるファイヤーフォックスがこよみの頭の上で寝てるのに気づかないのが悪いのよう」 「貴女《あなた》にしてはよい判断です」 「弓子に誉められるなんてうれしいわ」 「いまのかた、まるっきり一般人のコードでしたわ。使役する術も能力もないかたにデーモンを渡してよいものではありません」 「ゆゆゆ、弓子ちゃん。あたしは?」 「貴女には特訓が必要です」 「えええー」 「がんばれ、森下」 「か、嘉穂ちゃんも一緒にやろうよう」 「あたしは魔法使いじゃないし」  美鎖たちの会話を聞きつけたのか、庭のくさむらから黒猫がひょっこりと姿を現した。苔生《こけむ》したレンガに器用に爪《つめ》をひっかけ、黒猫は門柱をてっぺんまで登る。そして、前脚を体の下に折りたたんで座った。  どうやら、こよみの頭上にいるファイヤーフォックスよりも高い位置に来たかったらしい。縦長《たてなが》になったエメラルドグリーンの瞳《ひとみ》が、ロシア帽のデーモンをじいっと見つめている。  同時に、黒猫は、パラボラアンテナみたいな耳をくるくると動かし、去っていったばかりの珍客の行方《ゆくえ》も追っているようだった。男の姿は雑踏《ざっとう》に隠れてしまって見えないが、高性能の耳は、その重い足音をしっかりと拾っているのだった。  ファイヤーフォックスと黒猫を見比べ、美鎖は、ひとつのことを思いついた。  お引き取りを願ったうさんくさい男を追跡してみれは、なにか新しい情報が手に入るかもしれない。ファイヤーフォックスを巡る一連の出来事は非常にキナくさいが、同時に、情報不足すぎてよくわからないことが多い。ここは行動あるのみだ。 「こよみ、嘉穂、弓子……留守番頼むわね」 「どうしようと言うのです?」 「ちょっとケーキを食べに行ってくるわ」  こよみたちをその場に残し、黒猫の耳が指し示す方角に向けて、姉原美鎖は、銀座の街路を歩きはじめた。  ファイヤーフォックスを生み出した卵は、ケークイ上で動作するアプリケーションの一種である。  美鎖が調べたところ、日本ではなく米国で流行したアプリケーションであることがわかった。通信の内容や量によって、卵から生まれてくる生物の形や成長具合が異なるという内容だ。  ユーザーは、通信することによって、各々のケータイに棲《す》む自分だけのヴァーチャルな生命体を飼育することができる。  それ自体は、なんのへんてつもないアプリケーションだった。  ところが、あるとき、そのヴァーチャルな生命体の助けを惜りて、とある仕手《して》集団が米国の金融市場で大儲《おおもう》けをしたという噂《うわさ》がもちあがった。  ヴァーチャルな生命体がコンピューターに侵入して株価を操ったのか、移り気な米国人の消費マインドをコードで操作したのか、あるいは、ただ単に、魔法という心理的バイアスをうまく利用して風評をばらまき債権《さいけん》を売り抜けたのか、本当のところはわからない。  とにかく、その仕手集団は、短期間に売り貿いを繰り返して急激に資産を伸ばし、やがて彼らの動向が米国の金融市場全体に影響を及ぼすようになったそうだ。  人々は、仕手集団の言うとおりに株を買い家を買いローンを組んで、経済全体が加熱していった。幸せな日々はいつまでもつづくと思われたが、ある日、突然|制御《せいぎょ》がきかなくなって市場全体が大暴落をはじめたという。  その大暴落をもたらしたグレムリンをケータイに封じ込めることに成功したのだというのが、今回の依頼主の言い分だった。  たしかに、姉原家でファイヤーフォックスが生まれてから、日本の株価は連日のストップ高をつづけている。米国で起きた事件と同じことが日本で起きているのならば、いずれ株価は大暴落してこの地でも悲鳴が聞かれることになるのだろう。美鎖としても、避けられるならば避けておきたい事態である。  送られてきたケータイを美鎖は詳細に調べてみた。が、魔法発動コードがメモリーに残っていることはなかったし、魔法が発動した痕跡も感じられなかった。ケータイは、完全無欠に、ただのケータイだったのである。  ただ、卵のプログラムは、メモリーを節約するために実行ファイルそのものに設定を書き込むようにできていた。原則論で言えは、偶然書き込まれた設定が魔法発動コードとなり自動消去された可能性はもちろんある。  現実的に考えれは、それは、タイプライターを無限に叩《たた》きつづけた猿《さる》がシェイクスピアの作品を書き上げる�無限の猿定理�に等しいほどの確率だった。  高度な魔法発動コードが偶然成立する可能性は極めて低い。  たとえば、ソロモンのような、確率そのものを変動させる別のコードが同時に動いていたならば話は別だが、ケータイであることを考慮するとその可能性も低かった。  こよみになついているあのファイヤーフォックスは、直観的には悪いものではない気が美鎖はしている。だが、いいものが、すべていい結果だけを残すとは限らないのがこの世の中だ。黒スーツの男にこよみが狙《ねら》われているらしいことも、美鎖の、おそらく灰色の脳細胞を悩ませる原因のひとつだった。  黒スーツの男は、曾祖父《そうそふ》の研十郎《けんじゅうろう》かクリストバルドが遺《のこ》したゴーストスクリプトのコードだと美鎖は思っていた。魔女のライブラリの一件が解決したいま、そのコードが目的を終えて動作を終了していないことも気になる。  弓子が生きている限り、ジギタリスが復活する可能性が残っているからコードも残っているのだろうか。研十郎ともクリストバルドとも違う第三者が組んだコードだということだろうか。それとも、もともとはクリストバルドが組んだのだが、いまは違う人間が使用しているのか。  ならば、それは誰なのか。  こよみがこのところ毎晩見ているという夢も気になる。コードによる干渉《かんしょう》を受けている可能性があるが、そんなことをこよみに対して行う人間に美鎖は見当がつかない。  もしかすると、美鎖は、原因と結果を見誤っている可能性があるのかもしれない。なにか理由があってこよみが干渉を受けているのではなく、こよみへの干渉が最初の一歩であるのかもしれない。それならば、こよみが黒スーツにストーキングされる理由も、こよみの師匠《ししょう》である自分のところに卵が送られてきた理由も、ファイヤーフォックスがこよみになつく理由も一本の線で繋《つな》がる。  しかし、なぜ、よりにもよって森下《もりした》こよみなのだろう。こよみと弓子、クリストバルドとジギタリス。現在と過去の情報を繋ぐラインを、あやまって結線してしまったために思考にバグが生じているのだろうか。それとも、正しい答えを導き出す条件が足りていないだけのことなのか。  そこがわからない。  今度の一件は後手《ごて》に回っている気がした。  六本木《ろっぽんぎ》で死にかけたダメージが体から抜けておらず、肉体でコードを組んだり読み取ったりする能力が美鎖は顕著《けんちょ》に低下している。いままで、すべての事象《じしょう》を頭脳で考えることで解決してきたと自分では思っていたのだが、存外、魔法使いとしての感覚みたいなものに頼っていた部分が大きかったのかもしれない。  憧《あこが》れだった母のようでうれしい反面、理論で解決できない感覚の領域は面倒くさくもあった。  あるいは。単に、美鎖が書いたコードがこの事件の発端ではないからだという可能性もあった。コンピューターがあり、知識さえあれば、魔法発動コードは誰でも書けるということが現実的な問題になりつつあるというわけだった。  堂々巡りの思考をしながら、美鎖は銀座の町並みを歩いていく。  白人の男は、晴海通《はるみどお》りを横断し、急ぎ足でみゆき通りを北上した。痩《や》せこけた街路樹が夏の風に葉を鳴らし、路肩《ろかた》に駐車する車に影をつくりだしている。  気づかれないほどの距離を保ってついていきながら、美鎖は、おいしいモンブランが食べたいなとか、そんなことを考える。ケーキを食べに行くと言って出てきたが、本当に食べるのもいいかもしれない。  JPの高架をくぐって男が到着したのは帝国《ていこく》ホテルだ。金ならあると言うとおり、ずいぶんといい宿に泊まっているようだった。  さて、これからどうしようか。  フロントで鍵《かぎ》を受け取りエレベーターに消えた男の後ろ姿を見送り、姉原美鎖は、ロビーの中央で腕を組む。  男の宿はわかった。だが、なにか特別コードが周辺で動作している感触はない。こよみの頭上のファイヤーフォックスが見えなかった男は、やはり、魔法と関係ないごく普通の人間のようである。この男を起点にネットを使ってたどっていっても、本当に美鎖が欲しい情報にたどりつくことはないだろう。 「お嬢さん、お茶でもいかがですか?」  美鎖は、背後から声をかけられた。  不意打ちだった。  気配も、もちろんコードも感じなかった。この、日本語をネイティブにしない発音のことは聞いたことがある。数寄屋橋《すきやばし》交差点の近くで弓子が遭《あ》ったという占い師に違いなかった。  美鎖はゆっくりと振り返る。  男は、美鎖よりも高い身長を高級そうな仕立てのスーツに包んでいた。男の肌の色は東洋人しに近かったが、顔の彫《ほ》りの深さは白人種のそれだ。特に特徴的なのが鷲《わし》のクチバシのように鋭い形をした鼻だった。すべて弓子の言っていたとおりだ。体内のコードに特徴はない。つまりそれは、彼が、古典魔法を能《よ》く使うのではなく美鎖と同種の現代魔法使いである可能性を示唆《しさ》している。  この男は、なぜ美鎖よりも前に弓子の前に姿を現したのか。男の正体や目的を探る上で、それが重要な鍵となる。独自の正義感に突き動かされて行動している一ノ瀬弓子クリスティーナを恫喝《どうかつ》で操ることはできない。わざわざ弓子に言ったということは、弓子に言っておかねばならないことがなにかあったと考えるぺきだ。  宅配便でファイヤーフォックスを送りつけられたのは美鎖なのだから、もしもこの一件に男が関係しているというのなら、警告も美鎖になされるべきもののはずだった。  数瞬のあいだにそんなことを考えながら、美鎖の口はべつの言葉を紡いだ。 「ここのラウンジにモンブランがあって、あなたがリーヴァイ・マクレヴィならご一緒してもいいわよ」  男は笑ったようだ。 「モンブランはあります。わたしの正体は……秘密ということではどうでしょう」 「だったらモンブランだけで帰るわ」 「かないませんな。ミズ・アネハラ」 「どっちが」  法《ロー》に属する魔法使いなら再会するだろうと言われたと、弓子はたしか教えてくれた。  ならば美鎖は男とは正反対の場所に生息していることになる。姉原美鎖は、むしろ、混沌《カオス》の領域に属する現代魔法使いなのだから。  美鎖とマクレヴィは、高い天井のラウンジへ向かい、席をとった。ずいぶんと広い空間だ。そのまま、バスケットボールの試合ができそうである。もっとも、靴《くつ》を包みこんでいる毛足の長い絨毯《じゅうたん》は、バスケットボールには向かないだろうが。  宣言のとおり美鎖はモンブランを注文する。高速回転する脳細胞が糖分を要求していた。  足を組んで座っていると、マクレヴィが口を開いた。 「ざっくばらんにいかせてもらうけど、いいかな」 「いいわよ」 「あの男はぼくらの監視対象なんだ。ケチな犯罪者でね」 「ぼくら、なのね?」  美鎖の言葉にマクレヴィは動揺しない。占い師然とした微笑を浮かべていた。 「そう。ぼくらだ。といっても、現行法ではどうにもならない犯罪だがね。すべての犯罪者が司直《しちょく》によって裁《さば》かれるわけではない」  デーモンを操《あや》る男ならともかく、マジックアイテムにとり憑《つ》いたデーモンを利用していただけの男に美鎖も用はなかった。むしろ、弓子にリーヴァイ・マクレヴィと名乗ったこの男のほうにこそ興味がある。 「あなたは何者なの? 合衆国の政府関係者?」 「国家というのは、暴力を他者に強制する複数のシステムのひとつにすぎない。いまとなっては、それさえも機能不全を起こし、最大多数を幸福にする欲望の均衡点《きんこうてん》を国家は見つけられなくなっているがね。だから……ぼくらは国家とは関係ない」 「それが魔法となんの関係があるの? もしかして、あなたは神とか言うつもり?」 「違うよ」 「わたしのマシンを壊したのもあなたでしょう」  男は答えなかった。グラスに注がれた冷水をひと口含み、天から降る指示の声を聞くように顔を傾《かたむ》ける。そして言った。 「きみたちがファイヤーフォックスと呼んでいるらしいあれだが、あれが危険なのは、道具として人間が使い切れないからだ。ある程度コードを食べると、あれ《ヽヽ》は食べたコードを吐き出しはじめる。市場を操作して儲《もう》けるつもりが、いつの間にか制御できなくなってしまうんだ。そして大暴落が起き、多くの人々が不幸に喘《あえ》ぐことになる。それなのに、欲深い愚《おろ》か者は、たった一度の成功があきらめきれずにまだあれを欲している。彼は、欲望の罪深さをこれから知ることになるだろうね」 「食べたコードを吐き出す……本当に? 食べるだけじゃなく?」 「それが米国の市場で起きたことだよ。信じるか信じないかは別の話だが。ぼくが言えるのはここまでだ」 「つまり、ファイヤーフォックスを放っておくと日本の市場もどうにかなってしまうかもしれない。でも、あなたたちがなにかをするつもりはないってわけね」 「ぼくたちの仕事ではないからね」  リーヴァイ・マクレヴィはうなずいた。  この男が善か悪かは、美鎖には判断できなかった。  彼が古典的な魔法使いと無縁な存在であるだけ、背後に控える集団が不気味に思える。しかし、すくなくとも今回の件で美鎖と敵対する存在ということではなさそうだった。  このところ高騰《こうとう》をつづけている日本の市場に美鎖が責任を持っているわけではなかったが、ファイヤーフォックスは、やはり元の世界に返さなければならないようだ。混乱は未然に防ぐに越したことはない。  こよみは悲しむだろう。  ともだちになった魔法生物がいなくなるというだけではない。こよみは、せっかく手に入れた魔法の力を失うことになるのだから。  うるんだ目で見上げてくるこよみの顔を想像すると、胸がちくりと痛む。 「ところで、どうしてこんなにサービスしてくれるのかしら?」 「幸せは、あまねく人々に公平にもたらされるべきだからだ。それが、極東《きょくとう》の島にへばりついて住む人々であってもね」 「不思議な考えかたをするのね」 「そうかな。魔法とはなにかを根源的に考えれは、誰でも到達することだよ。いつか、きみも同じ結論に達してくれるとうれしいね。ミズ・アネハラ」  マクレヴィは微笑を浮かべた。東洋人でもない欧米人とも言えない不思議な笑顔だった。  ファイヤーフォックスは、終わりではなくはじまりかもしれない。男の言葉を聞いた美鎖は理由もなくそう思った。ソロモンの召喚《しょうかん》が、ソロモンだけに終わらず魔女のライブラリの復活まで繋《つな》がってしまったように、ファイヤーフォックスもなにかをもたらすきっかけになるような予感がある。だが、それがなにかはわからない。  疲労で脳細胞がうまく動作してないからかもしれない。美鎖は考えた。あるいは、体が回復しておらず、魔法的な感覚が鈍っているからかもしれない。磨《す》りガラスで周囲を覆われたかのように美鎖の感覚はぼんやりとしている。  突然、美鎖は背後でコードの乱れを感じた。  くぐもった音がする。  振り向くと、大きな金だらいが絨毯敷《じゅうたんじ》きのロビーの中央に落ちていた。いま出現したばかりのようだ。衆人環視の中で、金色の金だらいはゆっくりと右向きに回転している。森下こよみが召喚するたらいに似ていた。 「……おかしいわね」  つぶやき、美鎖は男に向きなおる。正面の椅子《いす》に、男の姿はなく、ただ、鋼鉄の金だらいがたてかけてあった。 「あのう……」  横から声がした。ウェイトレスだ。美鎖と金だらいを交互に見やり、トレイの上のモンブランをどこに置いたものかと迷っている。  同時にコードが乱れ、ウェイトレスの姿が掻き消えた。ころんと音がし、赤銅色のたらいが通路に転がった。  やけに静かだ。  美鎖は立ちあがる。  帝国ホテルの広いロビーにいる人間が、すべて、たらいと化して地面に転がっていた。 [#扉(img/yg6f_0167.jpg)]   第7章 火狐 [Firefox!]  森下《もりした》こよみは、銀座《ぎんざ》にある姉原邸《あねはらてい》にある美鎖《みさ》の仕事部屋の一角で、両手に鉄アレイを持ちながら、立ったり座ったりを繰り返していた。  両脚の間隔《かんかく》を肩幅よりすこしだけ広くとり、鉄アレイを持った手を後ろから前へと振りながらしゃがみこみ、立ちあがる。だんべるすくわっとという体操だそうだ。このとき、息を吸いながら腰を落とし、吐きながら立ちあがるのがコツなのだそうである。  左右の鉄アレイには二キログラムと刻印があって、なぜ美鎖の仕事部屋にそんなものがあるのかがそもそもの疑問なのであるが、とにかくこよみは合計で四キロもするものを持っていることになり、冷静に考えると体重が一割以上も増えているわけで、五回くらいしゃがんだところで太ももの内側がぴくぴくと痙攣《けいれん》しだしたのであった。 「ゆゆゆ、弓子《ゆみこ》ちゃん。これ、なんかいやればいいのかな?」 「三十回がワンセットで最低限五セットはやってもらいますわ」 「そんなのぜったい無理だよう!」  八回めに曲げたところで、こよみの脚は勝手にへたりこんでしまった。振り下ろした鉄アレイが床板にぶつかってごちんと音を立てる。 「手、ごちって言った。ごちって言った!」 「まだ八回ですわよ、こよみ。いくらなんでも音《ね》をあげるのが早すぎですわ」 「ふええん!」  白人の男を美鎖が追いかけていってしまったあと、こよみたち三人は姉原邸に勝手にお邪魔《じゃま》することになった。そして、美鎖がいない時間を利用して、こよみは、半ば強制的に弓子から古典魔法のレッスンを受けていたのだった。  といっても、コードの組みかたを教えてくれるとかではなく、弓子が指示したのは、運動部に入った一年生をふるい落とすための地獄の基礎練習とか、そんなかんじの運動メニューだった。古典魔法とは全身の筋肉組織を精密機械のように制御してコードを組むものであり、弓子の言うところによれば、こよみはそもそも体力が足りなさすぎて、意識して筋肉組織でコードを組むレベルまで到達してないというのだった。 「こんなの無理だよ。あたし、弓子ちゃんとちがってあんまり運動はとくいじゃないもん。肉体派じゃないし……」 「結果的にそうなっているだけで、|一ノ瀬《いちのせ》も特に肉体派というわけではないかと。魔法使いなんだし」  すこし離れたところで、後ろ向きに椅子にまたがっていた嘉穂がつっこみを入れた。冷たい床にぺたんと座ったまま、こよみはじと目で弓子を見上げる。 「……ぜったいうそ」  こよみの視線のありかを理解した弓子が金切り声をあげた。 「む、胸は関係ありませんわ! 貴女《あなた》はなにか勘違《かんちが》いしているようです。脂肪《しぼう》組織でコードは組めなくってよ。ほら、お立ちなさい!」  鉄アレイを床に置いて、こよみはよっこらせっと立ちあがった。膝から下が、生まれたばかりの子鹿のように震えている。自分の脚《あし》ではないみたいだ。こよみの気持ちを知ってか知らずか、プーは、高い天井《てんじょう》で興奮気味に大きな円を描いていた。 「弓子ちゃん、脚が痛いよう」 「スクワット八回程度でその状態では、望みのコードを組むなどというのは夢のまた夢ですわよ」 「一回はできたもん。ほんとだもん。あれはぜったい、弓子ちゃんと同じ剣のコードだったんだもん」  こよみは言い張ってみる。弓子はため息をついたようだ。 「剣のコードを貴女《あなた》が組んだことは疑っておりませんわ。たらいだけとはいえ、召喚コードのような複雑なコードをいままで組んできたのです。剣のコードもできたっておかしくありません。ただ、一度プログラムに書けばコンピューターがかならず同じ動作をしてくれる現代魔法と違って、古典魔法のコードは肉体における再現性が重要だと言っておりますのよ。剣を出現させようとして、ワニだのサイだのその都度《つど》違う動物が現れたら貴女も困るでしょうに」  弓子はやっぱり正論を言う。 「……ごめんなさい」 「あやまらなくてもよろしいですわ。その前に努力をすることです。デーモンという危険なものを貴女は手元に置いておきたいのでしょう?」 「プー、おいで」  こよみは、手を差し上げ、部屋の中を楽しそうに飛びまわっていたプーを呼び寄せた。光を散らしながら飛来したプーは、こよみの手首に絡《から》みつき、ひとさし指の爪《つめ》に噛《か》みついている。きょうのプーは甘ったれだった。 「魔法って難しいんだね、プー。あなたのおかげで魔法が使えるようになったのはいいんだけど、なんだかずいぶん道は遠いみたい……」 「あたりまえですわ。ところでそのデーモン、最初に見たときからずいぶんと大きくなりましたのね」 「そう?」 「こういう言いかたをすると貴女は楽しくないかもしれませんが、なんだかよくないコードを感じるようになりましてよ」 「でも、プーは生まれたばかりだし。きっときっと、成長期でいろいろあるんだよねー」  こよみはプーに微笑《ほほえ》みかけた。てのひらの上でぐるぐると電子っぽい音を出すプーは、青い瞳《ひとみ》でこよみと、その先にあるなにかを見つめている。ぶるるっと尻尾《しっぽ》を震わせ、プーは、古めかしい造りの窓を通り抜け姉原邸の外へ飛び出していった。 「あ。プー!」 「いま危険と言ったばかりですのに、貴女という人は!」 「ご、ごめんなさい! すぐ追いかけるよ。嘉穂ちゃん!」  部屋の入口に向かいつつ、こよみは嘉穂のほうへと振り返った。だけれどそこには誰もいない。ついさっきまで嘉穂が腰かけていた年代物の椅子には、モスグリーンの色をしたたらいがたてかけてあった。一見量産型っぽいけれど、熟練工によって精根《せいこん》込めてつくられたかんじがするというか、そんなかんじの金《かな》だらいだった。 「あれ、嘉穂ちゃん……嘉穂ちゃん? 嘉穂ちゃあん!」  こよみは弓子を見た。弓子が横に首を振る。 「さきほどまでそこに座っていたことしか存じませんわ。ところで、なんですの? そのたらいは」 「あ、あたしじゃないよ。あのたらいはあたしじゃない。ほんとだよ」 「まあいいですけれど……それにしてもずいぶんと外が静かですわね」  プーが飛び出していった窓に弓子は紫《むらさき》の視線を向ける。黙っていれば舶来《はくらい》の人形のように見える顔が、深い懸念《けねん》に歪《ゆが》んでいるのがこよみにもわかった。  しばらくして、こよみと弓子が嘉穂を探しているところに美鎖が帰ってきた。 「ファイヤーフォックスは?」  いきなり美鎖は言った。そうして目を細め、広い仕事部屋をぐるりと見回す。 「いましがた、外へ飛んでいきましたわよ」 「あらら。それはわりと本気で困ったことになったわねえ」 「ごめんなさい。あたしがちゃんと見てなかったせいで……」 「対策もなしにデーモンを放っておいた美鎖の責任ですわ。なにが起きても知りませんわよ」 「それがもう起きちゃってるっぽいのよねえ」  腰まである髪を手ですきつつ美鎖は言う。椅子の上になぜか転がっているたらいが気になっているようだ。その仕草は、まるで、古びた洋館で人の生き血を吸って美貌《びぼう》を保つ女吸血鬼みたいだった。  美鎖の説明によると、ファイヤーフォックスのプーはある種のコードを放出しはじめたらしかった。このデーモンは、一定以上の量のコードを食べると、それを吐き出す性質を備えているらしいのだ。米国で猛威《もうい》を振るったファイヤーフォックスは、金融市場を操作するコードを食べさせられていたために、相場を滅茶苦茶にするコードを一気に吐き出すようになったそうだ。  姉原邸の中でケータイに表示された卵から生まれたプーは、米国のファイヤーフォックスと同じく、相場を操作するコードも食べていたらしい。だけれど、こよみのそばで寝て起きて一緒に学校に行って一緒に魔法の訓練をしたプーがいちばん多く食べたのは、相場を操作するコードではない。  プーの主食は、すべてのコードをたらいに変えてしまうこよみのコードだった。  一般に無生物に比べて生きものに魔法がかかりにくいのは、無意識のうちに体内でこの世界の物理法則というコードを組んでいるからである。それが生命というものだ。おそらく、プーは、ケータイも人間もコードを組んでいるモノとしてしか認識していないのだろうと美鎖は主張する。  プーが吐き出したたらい変換のコードは、そうした、普通にそこにあるコードたちを、なんの分《わ》け隔《へだ》てもなくすべてたらいに変換してしまうというのだ。ある程度魔法に耐性のある人間はともかく、普通に幕らしている普通の人間は、暴走しはじめたプーによって、あっという間にたらいにされてしまうのだった。  美鎖の仕事場の片隅にある椅子に、モスグリーンのたらいがたてかけてあった。  こよみが召喚したものではない。  嘉穂の姿は見あたらない。 「か……嘉穂ちゃん?」  美鎖はうなずいた。 「見た目はたらいに見えるけれど、これは人間が持つ情報をコード化し、たらいの形状に再構成した魔法的なものだと思うわ。帝国《ていこく》ホテルから歩いてきたんだけど、銀座の街はたらいだらけよ。歩いている人間は人っ子ひとり見かけなかったわ」  こよみは、おそるおそる、モスグリーンのたらいに触れてみる。その表面はつるつるとしていて、感触は金属と同じで、こよみの指先から体温を奪っていく。ぴりぴりとしたコードに似た感触がたらいの奥底で蠢《うごめ》いているのがかすかに感じられた。うまく説明できないけれど、それは、ひかえめで、確実で、鋭さを秘めていてとてもとてもやさしい、坂崎《さかざき》嘉穂を感じさせるコードだった。 「どどど、どうやったら……嘉穂ちゃんはどうやったら元に戻るんですか?」 「大本《おおもと》であるファイヤーフォックスのコードを止めることね。そうすれば、この世界をもともと支配している物理法則が働いて自然に元に戻ると思うわ」 「他人事《ひとごと》のように言っても事態は解決いたしませんわよ」  机の上に置いてあったケリュケイオンの杖《つえ》を取りあげ、弓子はきつく握りしめた。杖の最上部には絡《から》み合った二匹の蛇《へび》の意匠《いしょう》が刻まれている。 「究極的には、ファイヤーフォックスを元の世界に戻せばいいんだろうけど、現状だと難しいかしらね。弓子の古典魔法が失敗したってことは、わたしが現代魔法で同じことをやってもたぶんだめでしょう。ファイヤーフォックスはコードを食べちゃうから」 「わたくしはまだ試《ため》してないことがありますわ。美鎖、貴女はどうですの?」 「新たなデーモンを召喚して、ファイヤーフォックスと相殺《そうさい》させるくらいね。うまくいけば自分の世界へ戻ってくれるでしょう。いまのところ、思いつくのはこれくらい」 「では、わたくしの方法と二段構えということになりますわね」 「こよみ、いいわね?」  美鎖が、高い位置からこよみの目を覗《のぞ》きこんでくる。 「聞くまでもないでしょうに。こよみだって、まさか嘉穂をこのままにしておくわけにはいかないでしょう?」  こよみを脇《わき》に置いて、美鎖と弓子は真剣な表情で話している。せっかく仲良くなったのに、かけがえのないプーなのに、できればこのままずっと一緒にいたかったのに、どうやらそれは叶わぬ願いになってしまいそうだった。プーはかわいい。とてもとてもかわいい。だけれど、プーは人に迷惑をかける。かわいいプーのせいで、かけがえのない人たちがたらいになってしまうのは嫌だった。美鎖が言った。 「でも、問題がひとつあるわ。コードを用意するのにはだいぶ時間がかかると思うの。プログラミングが必要な現代魔法はこういうときには適してないわ。コードの影響範囲と強度がこのまま拡大をつづけるようだと、間に合わないかもしれない」 「貴女らしくもない。弱気ですわよ」 「冷静に見通してるだけよ。問題なのは、コードを組みあげる能力があるかないかじゃなくて時間だから」 「なぜ、そんなに時間を気にしますの?」 「たらいに変換してしまうコードは、いまやすべての人間に影響を及ぼしてる。どれだけ耐えられるかは、その人に備わった魔法耐性能力によるとしか言えないわ。聡史郎《そうしろう》なら永遠にだいじょうぶ。大魔法使いなら地球最後の生き残りになれる。それ以外の魔法使いならそれなりに、ってね」 「なら、美鎖、貴女はだいじょうぶでしてよ。他のことはわたくしにまかせて早くコードにとりかかることですわ」 「ところがそうでもないのよ。わたしは病みあがりだから。いざとなったら、こよみ、弓子のサポートを頼むわよ」 「え? え? あたし……ですか?」 「ファイヤーフォックスが吐き出しているのはこよみのコードと同質のものなの。なんとかできればの話だけれど、こよみがなんとかするのがいちばん効率的——」  ぽみゅ、という音がして美鎖の姿が掻《か》き消えた。板張りの床で、漆黒《しっこく》の金だらいが回転している。 「おい、おまえら。いまなにをやったんだ?」  ドアのところから声がした。  普通にしていれば端正で通る顔の眉間《みけん》に深いたてしわをつくった表情で、聡史郎が入口に立っていた。平静を装って弓子が答える。 「見てのとおりですわ。美鎖がたらいになりましたのよ」 「マトモな世界で生きている常識的な人間をからかうのもいい加減にしろ。姉さん、隠れてないで出てこいよ」  答えるものはない。床に転がっているのは漆黒のたらいだ。金属製のたらいなのに、色というものをまったく感じさせない。そこに穴が空《あ》いたかと錯覚してしまうようなたらいだった。  聡史郎がちっと舌打ちした。 「親切心でお茶でも淹《い》れてやろうかと思ったがやめだ。自分の部屋で勉強するから、邪魔《じゃま》すんなよ。真面目《まじめ》に応対する気になったらあやまりに来い」  ばたんと扉を閉めて行ってしまった。  突然がらんとした部屋には、弓子とこよみがいて、モスグリーンのたらいと漆黒のたらいが落ちている。弓子は無言だ。もちろん、たらいはなにもしゃべらない。  なんだかまずいことになってる気がする。なんだかまずいことになってる気がする。なんだかとてつもなくまずいことになってる気がする! きっとこれは、こよみが余計なことをしたせいだった。ちょっと魔法をかじって、プーのおかげでたらい召喚以外の魔法も使えるようになったりして、もう前と同じ失敗は犯さないなどといい気になっていたせいで取り返しのつかないことが起きようとしている気がする。  敵がいれは、まだ倒すことができる。でも、今回の原因は暴走したコードで、コードそのものには慈悲《じひ》も躊躇《ちゅうちょ》もない。ただ、世界の破滅に向けてすべてをたらいに変換しているだけだ。そしてそれは、かけがえのない、こよみのファイヤーフォックスがやっていることなのだった。 「聡史郎はたらいになりませんものね。部屋にこもってこの世界を見ないですむのなら、かえって幸せかもしれませんわ」  弓子が言った。後ろ姿なので、こよみには表情はわからなかった。           *  銀座の街は、姉原邸の中にも増して静まり返っていた。  裏道にも、大通りにも、デパートにも、ブランドショップにも、画廊《がろう》にも酒落《しゃれ》た喫茶店にも、どこを見渡しても人の姿はなかった。ただ道に、大きさも色もまちまちなたらいが転がっているだけだ。  たらいは歩道だけでなく車道にも転がり、信号の前で列をつくる大きなたらいに、寂《さび》しく明滅する信号の光が空《むな》しく反射している。どうやらこのコードは、車に乗っていた人は車ごと自転車に乗っていた人は自転車ごとたらいに変換してしまうらしかった。道を歩いていた人は歩いていた姿のまま、道路を走っていた車は走っていた姿のまま、突然、その場所で静止したように見える。  たしか美鎖は情報がたらい化すると言っていた。もしかしたら、運動していたという情報も含めてたらいになっているのかもしれない。  大きなビルの側面で、ロープに吊《つ》るされたたらいが揺れている。ビルの外壁掃除をしていた人に違いなかった。  人々がたらいになる現象がいったいどこまでつづいているのかは見当がつかない。銀座周辺だけで終わっているのかもしれないし、もっとずっと遠くまで波及しているかもしれない。元に戻ることができたとき、この人たちがみんなケガをしていなければいいなとこよみは思う。  美鎖がつくってくれたデーモンじゃらしを右手に持ち、左手で弓子の服の裾《すそ》を握りしめて、こよみは、無人の街道を進んでいった。 「プー! 出ておいでー!」  じゃらしを振りながらこよみは叫んだ。 「なんにもしないよー!」 「こよみ。悠長《ゆうちょう》なことを言ってる場合ではなくってよ」  弓子の声は怒っているようだ。 「でもでも、弓子ちゃん。プーにこのコードを解除してもらえばなんとかなるんじゃないかな。プーはいい子だから、あたしの言うことならきっと聞いてくれるよ」 「だから貴女は甘いというのですわ。こよみ」 「え? なんで」 「貴女がプーと呼んでいるファイヤーフォックスはデーモンです。それらの思考や行動を人間の常識で推《お》し量《はか》るのは危険な行為ですわ。たとえば、ある日、呼吸を止めてくれと頼まれたら貴女はどうしますの? そんなことできないでしょう。デーモンを相手にするというのは、そういう要求をするということと同じなのです」 「でもでも、じゃあ、どうするの?」 「破壊することになりますわね」 「ええ! そんなの、プーがかわいそうだよう」 「こよみ。だったら周囲を見回してごらんなさい。たらいになって地面に転がっている人々がかわいそうでないと言われるのでしたら、貴女の意見にも耳を傾けましてよ」  話しながら、ふたりは人気《ひとけ》のない春海通《はるみどお》りを進んでいる。足元には、午後の光をきらりと反射させるたらいたちがそこかしこに落ちていた。  いつものこよみは、どんなコードでもたらいに変換できるスペシャルな能力を持っていた。だけれどいまは単なる魔法の初心者で、自分の体をつかって一から組んだ頼りないコードがそのまま発現する状態だ。正直なところ魔法発動の原理とかもよくわかっていないし、飼い主だからプーを探しやすいかもしれないというだけで、弓子をサポートできる魔法的な力はなにひとつ持っていない。  でも、だからこそ、こよみが気づくことだってあるはずなんじゃないかと思ったりする。たしかにプーは悪さをしていて、街はとんでもないことになっているし、弓子がいなくてこよみひとりだったらもうお手あげの状態なのだけれど、だからといって、プーをやっつければいいということではないとこよみは思うのだ。だけれど、弓子の言うことはいつも正しいので、反論はしないでおいた。  弓子は、攻性《こうせい》コードによる魔法の飽和《ほうわ》攻撃をかけようとしているのだと言った。ファイヤーフォックスのプーは、周囲にあるコードや自分に対して向けられたコードを食べてしまうが、食べたコードを吐き出すということは、食べられる限界点みたいなものがあるのかもしれない。吐き出す余裕もないほどの短時間のうちに限界点を遥《はる》かに越えたコードを食べさせれは、破裂するか、あるいは、それ以上食べられなくなって攻性コードが通常の効果を発揮するのではないかというのが弓子の考えだ。非常に弓子らしい、正面突破なやりかただとこよみは思った。 「こよみ。なにか感じまして?」  弓子が言った。 「よくわかんない」  じゃらしにもプーは気づいてくれていないようだ。それとも、こよみたちの雰囲気《ふんいき》が怖いから近づいてこれないのかもしれない。ああ見えて、プーはけっこう空気を読むところもある。一緒に寝ているこよみしか知らないことだけれど。歩きながら、きょろきょろとこよみは左右を見回した。  視界の端になにかが見えた気がした。デパートの看板のところだ。青白い尻尾の影がある。プーだ。  こよみは弓子に告げようとし、言葉が出ずにただ息を呑《の》んだ。弓子が、気配を察してこよみの視線を追う。 「剣《つるぎ》と化せ我がコード!」  ケリュケイオンの杖《つえ》を高らかにあげ、弓子はなんの躊躇《ちゅうちょ》もなく呪文を唱えた。  宙に出現した金色の剣はすべるように疾走し、プーの炎をかすめてデパートの看板に衝突する。爆音と煙が散り、すこし遅れてぱらぱらと石の破片が落ちてきた。 「プー!」 「逃がしませんわ。剣と化せ我がコード!」  つづいて飛来した剣を、プーは体をひねってひらりと避けた。風に乗って、ぐるぐると電子音っぽい振動音が聞こえた気がした。あのファイヤーフォックスは、弓子の渾身《こんしん》の攻撃を追いかけっこかなにかだと思っているのだった。  弓子は奥歯を噛《か》みしめている。剣のコードにプーが危機を感じていないことに彼女も気づいたのかもしれない。杖を握る指が真っ白に変色している。  デーモンの移動速度はとても速い。その中でも特にプーは速い気がこよみはしている。  弓子の攻撃が当たらないことにこよみは複雑な気持ちだ。プーには無事でいてほしいし、かといって、嘉穂や美鎖がたらいになったままでいいとは考えていない。  こんなとき、事態をいっぺんに打開するアイテムをなぜか持っているのは嘉穂の役目だ。でも、その嘉穂はここにはいない。危機に陥《おちい》ったときにはいつでも助けに来てくれた美鎖も、漆黒のたらいになって姉原邸の床に転がっている。こよみたちは、自分たちの危機を自分たちだけで乗り越えなくてはならない。 「プー!」  こよみの声をプーは聞きいれてくれないようだ。割れた看板のところで楽しげにダンスを踊っていた。 「……弓子ちゃんどうしよう」 「この程度で貴女はあきらめますの? わたくしは、たとえ人類最後のひとりになってもあきらめませんわよ。距離が遠くて避けられるのならば近づけばいいだけの話です」  弓子の体がふわりと浮かびあがった。強力なコードが体の中で継統して組まれつづけているのがこよみにもわかる。空を飛ぶコードだ。美鎖だって、空を飛ぶにはホウキが必要だったはずなのに、弓子はなにもなしで宙に浮かんでいるのだった。 「もしかして、弓子ちゃん、強くなってる?」 「ええ。だいぶ」 「それって……魔女のライブラリの?」 「残念ながらそういうことになりますわね。貴女はここで待っていなさい。わたくしが、いま、片《かた》を付けてまいりますわ」  景初はゆっくりと、次第に加速して。弓子の体は銀色の流線となってファイヤーフォックスへ突入した。オレンジ色と銀色の二重|螺旋《らせん》が複雑によじれながら上昇する。螺旋が通りすぎるたび、デパートの側面が次々と爆発していく。デーモンであるプーは、壁を突き抜けて移動することができる。目標を見失うたび、弓子が剣のコードで壁を破壊しているのだった。  ひとりの魔法使いと一匹のデーモンは、絡みあいながら銀座の上空を疾走する。こよみは必死に足を動かし、プーと弓子に置いていかれないように追いかけた。 「剣と化せ我がコード!」  凜《りん》とした弓子の声が聞こえ、爆音とともに壁面が散る。こよみの制服は白い粉でいっぱいだ。アスファルトに点在するたらいにも、破片の層は積もっていく。  こよみはプーのお母さんで、弓子は大切なともだちだ。プーをなんとかしなければならないという弓子の言葉が正しいこともわかっている。それなのに、こよみは、両者が戦っているのを、地面から見上げていることしかできないのだった。  爆発が連続した。煙の中に人影らしきものが見えた。弓子だ。  プーは上昇し、急降下。こよみの髪をかすめて大通りの上空へと帰還する。こよみは空を見上げた。青空に浮かぶ雲の中に、さらに白いプーの尻尾が飛翔《ひしょう》している。どこかのビルの爆発で吹きとんだのか、無数の花びらがひらひらと舞い落ちてくるのが見えた。  こよみは、最初にプーを見つけたデパートの前に戻っていた。上ばかり注意して走っていたので気づかなかったのだ。首の後ろ側に鈍痛があった。呼吸は荒く、足の裏が熱い。 「弓子ちゃん! プー!」  弓子はうなずいたようだ。  プーは無邪気に円を描いている。  一ノ瀬弓子クリスティーナは、ケリュケイオンの杖を握りしめた右手をゆっくりと前に伸ばし、二匹の蛇《へび》が絡み合った先端をファイヤーフォックスに向ける。  そして、ひねった。  爆発し焦《こ》げつきあるいは欠け落ち亀裂《きれつ》が入ったビル群の壁から、いままで弓子が放ったのと同じだけの剣が姿を現す。それは、一本一本が金色に光り輝き、一本一本が強靭《きょうじん》なコードによって組みたてられ、すべてが等しく破邪《はじゃ》の力を備えていた。  いったい、いままで、どれほどの剣のコードを弓子は組んだのだろう。こよみの視界に映る剣は数え切れない。ファイヤーフォックスが攻撃を避けるたび、弓子は剣のコードを維持しビルの壁面に埋めこみ残しておいたのだった。 「剣と化せ我がコード!」  ファイヤーフォックスを球状に取り囲んだ剣たちが、一斉に中心を目指し飛翔した。 「プー!」  こよみの声は届かない。炎をまとうキツネがいた場所は、金色の光で埋めつくされている。キンキンと鉄がはじける音が聞こえてきている。  弓子が、ゆっくりと地上に降りてきた。 「……弓子ちゃん」  地面に降り立つと、弓子は、ケリュケイオンの杖にもたれかかりなんとか姿勢を維持した。ずいぶんと疲弊《ひへい》しているようだ。あれだけのコードを一度に使ったのだから無理もない。杖を握る手が、指先から漏《も》れた血で真っ赤に染まっていた。  上空では金色の光がまだ弾《はじ》けつづけている。いくら魔法を食べるデーモンといえど、これではどうしようもないかもしれない。 「弓子ちゃん、だいじょうぶ?」 「あれが……いまのわたくしの精一杯ですわ」  弓子は凄艶《せいえん》な笑みを浮かべた。  上空の光がひときわまばゆく輝いた。無数の剣がひとつの点に突き刺さっているのがわかる。  剣たちは、ゆらめき、光の粉となって、次の瞬間、そのすべてが弓子に降り注いだ。避ける暇もなかった。  なにもなくなった空を、ファイヤーフォックスのプーが、北の方角へ向けて飛んでいくのが見えた。  ひどい傷だが、弓子は息をしているようだった。  こよみは治療のコードを知らなかった。持っているのは、ひざをすり剥《む》いたとき用のバンソーコーだけだ。まさか、プーを相手にしていてケガをするなんてことがあるとは思っていなかったし、包帯を用意していたとしても弓子のケガには追いつかなかっただろう。 「弓子ちゃん!」  弓子が持つケリュケイオンの杖にはクリストバルドが遺《のこ》した可変コードが詰まっている。弓子なら、それを使って自分のケガを治療することもできる。弓子の意識さえ戻れば——  そのとき、ぽん、と音を立てて弓子の姿が消えた。  アスファルトの上に、白銀の杖と、同じ輝きを放つ白銀のたらいが転がっていた。 「……ゆみこ、ちゃん?」  たらいは答えない。たらいはたらいだ。 「ねえ! 弓子ちゃん! 答えてよ! ねえ!」  ひざまずき、こよみは銀色のたらいを揺すってみた。だけれど、たらいが奏《かな》でるのはアスファルトとこすれたときのがらがらという金属音だけだった。 「弓子ちゃあん!」 「うるさいぞ。何度も言わなくても聞こえておるわ」  耳に侵入してきたのは、聞きなれない、それでいてどこかなつかしいところのある声だ。見上げると、たらいの上に、弓子を大人にして髪を真っ赤にしたような女性の像が浮かびあがっていた。 「再会を祝そうではないか、森下こよみ。一ノ瀬弓子クリスティーナの友よ」  声の主はジギタリス・フランマラキアだ。魔女のライブラリのつくり手にして十万人を虐殺《ぎゃくさつ》した悪辣非道《あくぎゃくひどう》の大魔法使い。ヴォージュに生を享《う》け、炎を能《よ》く使い、幾度となく転生を繰り返した記憶の集合体。  銀色のたらいの上に浮かぶジギタリスは笑っているようだった。 「おもしろい。まったくおもしろいな。こたびはミダスのコードを無限連鎖させたか。おまえのそばにいると新鮮な経験ができてよい」  こよみは、おずおずと魔女の像を見上げる。 「ええと……ジギタリス、さん?」 「いかにも。わたしがジギタリスであり魔女のライブラリだ。筐体《きょうたい》である弓子が死にかけたゆえ、こうして出てまいった。剣のコードを食われて反撃をくらうとは、なさけない」 「ゆゆゆ、弓子ちゃん、死んじゃうんですか?」 「安心しろ。森下こよみ。一ノ瀬弓子クリスティーナを殺すには、まず、ライブラリであるわたしを破壊せねばならない。わたしが敗北しない限り、弓子の肉体が滅びることはない。その代わり、回復するまでは弓子ではなくわたしが体を使うことになるがな」  こよみは胸を撫《な》でおろした。どうやら弓子は、裏技っぽいものを身につけたらしい。 「あのあの……それで、弓子ちゃんをたらいから元に戻して欲しいんですけど」 「それは無理だ」 「どどど、どうしてですか?」 「いまはこの白銀のたらいこそが一ノ瀬弓子クリスティーナだからだ。わたしは宿主《やどぬし》である弓子に縛《しば》られている。弓子がたらいである以上、ライブラリはたらいに接続しているのだよ」  なんだかおかしなことになってきた。たしか、ジギタリス・フランマラキアは最強の魔法使いだったはずなのに、目の前でたらいになってしまっていて、しかもそれはどうにもならないという。 「じゃあじゃあ、プーが起こした、みんなをたらいに変えちゃうコードをぱーってなくしちゃうとかはできませんか?」 「それもならぬな。森下こよみ」 「そんなあ」  たらいの上でジギタリスは胸を張る。威厳《いげん》あふれる仕草だったが、初夏の陽光が降りそそぐ銀座の往来《おうらい》で、なぜかアスファルトに落ちているたらいの上でやっても、インパクトはまったくないのだった。 「この世でもっとも強大な魔法使いといえど、同時に、ひとつのコードを組むひとりの古典魔法使いでしかないのだよ。魔力の強弱に関係ない今回のような出来事には、普通の魔法使いと同じようにしか対応できぬ。あのデーモンは、いまやただのデーモンではない。外からの魔法攻撃を食らいその際の余剰《よじょう》コードをたらいに変換してしまう能力を持つのだ。これも一種の世界の破滅と受け入れるがよい」 「め、減亡なんてだめですよう」 「この連鎖を止めることができる人間はおらぬ。このたらいは、いずれは東京を覆《おお》いつくし、日本を覆いつくし、海を渡って大陸に広がりいずれは地球全土へ蔓延《まんえん》するだろう。なに、安心しろ。人が死ぬわけではない。ただ、たらいになるだけだ。人は、人としての情報を保ったままたらいと化す。この連鎖コードの影響を受けぬのは、森下こよみ、おぬしと姉原聡史郎《あねはらそうしろう》、世界でふたりきりだ。ふたりで世界のアダムとイブとなるのもまたよかろう。わたしと弓子は、ここで、ずっとおまえたちふたりを見守っていよう」 「そんなのだめですよう」 「考えようによっては、人の寿命は飛躍的に伸びたのだと言えるかもしれぬぞ。たらいは死なない。ただ壊れるだけだ。風月《ふうげつ》が崩壊させるまでそこにとどまりつづけるだろう。おもしろいぞ、森下こよみ。まことにおもしろい。おまえを友に選んでよかったと心から思う」  こよみは困ってしまった。  人間ではなく記憶の集合体であるジギタリスは、考えかたも人間とはいくぶん異なるらしい。普通だったら、たらいになった状態でこよみを見守っていても楽しくないんじゃないかと思うのだけれど、ジギタリスは十分それで楽しいし、おまけにたらいと人間でも友人関係がつづいていくらしいのだった。  まあしかし、どんなことがあっても守ってあげると大言壮語《たいげんそうご》したこよみが弓子にケガをさせてしまったためにいまの状況があるのだから、ジギタリスに文句を言うのも気が引けた。  うつむいて指をつんつんするこよみを、宙に浮かぶ大魔女はにやにやしながら眺めている。 「……しかし、おまえならなんとかなるかもしれない。この世でただひとり、クリストバルドの呪《のろ》いを背負ったおまえなら、な」 「ど、どうすればいいんですか? プーにお願いすればいいの?」 「以前弓子がファイヤーフォックスに使った強制帰還の呪文を見ているだろう。あのコードをおまえが使えばいい」 「でもでも、あの呪文はプーが食べちゃって……」 「だから森下こよみ、おまえでなくてはならぬのだ。おまえの魔法発動コードは二段階に分かれている。よって、ファイヤーフォックスは二段階めのコードだけを食べようとし、最初のコードが動作することになる」  ジギタリスによると、こよみがコードを組めは、組んだコードのたらい変換部分だけがプーに食べられて、強制帰還のコード部分は実行されるというのだった。うまくプーを返すことができれば、の話だけど。プーがいなくなると、変換もされなくなっちゃうらしくて、おかしな魔法的矛盾ってやつが起きるらしいのだけれど、そのへんはやってみないとわからないそうだ。まあとにかく、こよみがコードを組むのが、ただひとつ残った成功の道らしい。 「わたしは、おまえとなら、このまま世界の破滅を迎えてもかまわぬぞ。森下こよみ」 「そんなのだめ。世界の破滅なんてだめだよ」 「おまえの大事なファイヤーフォックスはいなくなるぞ。それでいいのか?」  こよみは、無言でうなずいた。 「では、クリストバルドの杖を拾うがいい。わたしがみずから、コードを教えてやろう」  欧州からやってきた大魔女はおごそかに言った。こよみは、銀色の光を放つケリュケイォンの杖を、力をこめて、地面から広いあげた。 [#扉(img/yg6f_0195.jpg)]   epilogue  なぜかわからない。  なぜかはわからないけれど、こよみは、プーは秋葉原《あきはばら》にいるような気がした。予感というか確信に近かった。もしかしたら、プーの残したコードがこよみにはなんとなくわかっていたのかもしれない。詳しいところはこよみ本人にもわからない。  いつものようにこよみは日比谷線《ひびやせん》の銀座《ぎんざ》駅へと向かい、マリオンの横にある階段を半分まで下りたところで地上へ引き返した。もちろん電気は点《つ》いていたのだけれど、地下へとつづく道は、ひとりのこよみには怖すぎた。  しかたがないので、こよみは、JR有楽町《ゆうらくちょう》駅に向かった。たらいが転がっている以外には誰もいない券売機で切符を買い、誰もいない自動改札機に通す。乗客も駅員さんも誰もいないのに、黙々と機械が働いているのが不思議だった。  ホームにあがると、そこにもたらいが落ちていた。  いくら待っても電車は来ない。自動改札機が動いているのだから電車も動いているかと思ったが、そううまくはいかないようだった。表示板で方向を確認し、ホームの端っこまで歩いて、びくびくしながらこよみは線路に下り立つ。線路は、なぜか、水のにおいがした。踏みしめた敷石が、ローファーの下で、じゃりっと音をたてた。  赤錆《あかさ》びたレールが、こよみの前に、どこまでもどこまでもつづいていた。ごみごみした街並みが足の下に見える。しばらく歩くと、線路にもたらいが落ちていた。連結された大きなたらいの中に複数のちいさなたらいが重なって入っている。これが、もとは電車だった情報たちなのかもしれない。  線路脇の道で横断幕がはためいている音が聞こえた。遠くで鳥が鳴いているようだ。車の音もしないし、人の声もしない。ローファーが枕木《まくらぎ》を踏むとぎいと音がした。人間がつくり出す音がしない世界は、意外と、他の音たちに満ちている。  もしかしたら、こよみは、このまま来た道を戻って、姉原邸《あねはらてい》に行ったほうがいいのかもしれない。コードの影響を受けない聡史郎《そうしろう》は、きっと無事でいてくれるはずだ。ひとりで前に進むよりも一緒にいたほうがいいかもしれない。ジギタリスだってそう言っていたはずだ。  だけれど、こよみは、プーを探して線路をまっすぐに歩いていった。  秋葉原に到着した。  銀座と同じく、駅にも駅前にも道路にも、さまざまな場所にさまざまなたらいが落ちている。歩いている人間はいない。店頭から漏れるBGMは健在だ。空《むな》しく響く音の中を、こよみは、デーモンじゃらしを揺らしながら進む。 「プー! おいでー!」  反応はなかった。  こよみは、口に手をあて、もう一度声をはりあげる。 「プー! おいで! もう怖いことなんかしないから!」  本当は、こよみは、最初からわかっていたのだった。  こよみにこよみの世界があるように、プーにはプーの世界がある。こよみのために、プーの世界を奪ってはいけないのだ。  森下《もりした》こよみは魔法を使えない。たらいしか召喚《しょうかん》できない。でも、こっそりと魔法があるこの世界はこよみにとってそれほど悪いものではない。もしも天国みたいな場所があったとして、魔法が使えて頭が良くなって運動神経抜群で背も胸もどーんと大きくなってすべての望みがかなうのだとしても、この世界から出ていけと言われたらこよみは断固拒否するだろう。  プーだって同じだ。自分が本当に属する世界を嫌いなはずなんかない。米国で誰かが欲をかいてひどいことが起きたように、こよみが自分の都合を優先したせいで、日本でもひどいことになってしまったのだ。いまはそう思う。 「プー!」  たらいの散らばる中央通《ちゅうおうどお》りの真ん中で、こよみは大声で叫ぶ。  天空に、青白い尻尾《しっぽ》が見えた。ビルとビルのあいだにオレンジ色の輪が出現し、螺旋《らせん》を描きながらこよみに近づいてくる。  ファイヤーフォックスのプーは、すごく速くて、ちいさくて、どんなコードも食べてしまう食いしんぼうで、ケータイを囓《かじ》るのが大好きで、寝るときはいつもこよみのお腹の上だった。こよみの上空一メートルのところを、すこしだけまた大きくなったプーがゆっくりと旋回している。  こよみは、手を差し上げ、炎に包まれたプーをやさしく受けとめる。 「おかえり。プー」  きっとプーがいない毎日は、プーがいる毎日よりも、すこしだけ退屈なんだと思う。でも、そんなことは言ってられないのだろう。森下こよみはすぐ泣くしよく笑うしお腹《なか》も空《す》くし、たまには聡史郎と口ゲンカなんかもしたりして、三回に一回は生きててごめんなさいと落ちこむので忙しい。そういう。いつもと変わらない明日がきっとやってくるのだ。  腕の中でプーが震えた。ぐるぐると電子音の鳴き声を出しながら、プーは、炎に包まれた細い鼻筋をこよみの顔になすりつけてくる。 「……おまえにもわかるんだね」  青い瞳《ひとみ》がこよみを見つめている。  プーのぴりぴりする毛を、こよみは、そうっと、それでいてぎゅうっと抱きしめた。弱い電流をさわったときのようなあたたかくて不思識な感覚が腕いっぱいに広がった。 「いくよ。いいね」  こよみは、勢いをつけてプーを放りあげる。  つむじ風に舞い上げられる秋の木の葉のように、くるくると回転しながらプーは空へと昇っていく。  オレンジ色に燃えあがる体に向かって、こよみは声をはりあげた。 「プー! またいつか……いつになるかわからないけど、きっときっと会おうね!」  青白い尻尾が、かすかに揺れた気がした。  ケリュケイオンからコードをロード。右腕を通過した可変コードが肩を通り首を通り全身へ散らばっていく。体にあるすべての筋肉を使って、こよみは、ジギタリスから教わったコードを組みあげる。それは、一ノ瀬弓子クリスティーナのとっておきのコードで、いつものたらい召喚ではないちゃんとした魔法をもたらすもので、森下こよみがずっとずっとあこがれていた正真正銘《しょうしんしょうめい》の魔法なのだった。 「ひとりになっても元気でいるんだよ。さびしくて泣いたりしちゃだめだよ。他の世界でも、ちゃんとごはんを食べるんだよ。さよなら、プー。さようなら……あたしのファイヤーフォックス」  コードを天に向けて放つ。オレンジ色の流星が現れ、消える。街の喧噪《けんそう》が戻ってきた。こよみのすぐ脇《わき》を、クラクションを鳴らしながら自動車が走り抜ける。  真っ青な夏の空に、たらいが落下する、かん、と澄んだ音が響きわたった。 [#改ページ]   あ と が き 「おれ、この原稿が終わったら猫プログをはじめるんだ……」  死亡フラグでした。  すみません。  有名な落語に「まんじゅうこわい」という噺《はなし》がある。本当はまんじゅうが好物な男が、怖い怖いと言って仲間からまんじゅうをせしめてしまうという筋の噺である。人の心理を巧《たくみ》みに利用した孔明《こうめい》の罠《わな》であると言えよう。  そこでわたしは考えた。  この噺を逆手《さかて》にとり、本当は心底怖いものに対して好きだ好きだと毎日言っていれば、その怖いものがわたしを苦しめたりしない新世界がいつしか訪れるのではなかろうか? 待て、あわてるな。そんなことは無理だ。いやしかしやってみなければ結果はわからない。  というわけで。  二〇〇八年の|ながい長い《ヽヽヽヽヽ》夏がはじまろうとしていたある日、とある保護団体から、わたしは一匹の仔にゃんこを譲り受けたのであった。  わたしは。この世でもっとも愛くるしく無邪気《むじゃき》で恐れを知らず人のそばでにゃーと鳴くだけで何千年も種族を維持してきた小さきその生命に、この世でわたしがもっとも畏怖《いふ》する言葉を名前として授《さず》けた。  シメキリさん、と。  シメキリさんはシャム系ミックスの♂で、人なつこくてさびしがり屋だ。おはようからおやすみまでわたしの生活をストーキングし、たとえばクッションによりかかってノートPCをてちてち打っていると、さも当然の顔で胸の上に乗ってきて喉《のど》を鳴らす。わたしがトイレ行くとついてきて、便座に前脚《まえあし》をかけて中をのぞいている。脚に毛布をかけて座っていると、もぞもぞと中にもぐりこんで居着《いつ》いてしまう。  彼は、人間が座っていたぬくい場所が大好きだ。お茶を淹《い》れるために一分に満たない時間席を離れた隙に、使っていたクッションはすみやかに占領されている。にゃんこ王国の独裁者はブリッツクリークが得意だ。返還交渉はいつも失敗する。  しかたがないので、わたしは、クッションをふたつ並ぺて、シメキリさんと交互に移動しながら仕事をしていた。  わたしは彼の頭を撫《な》でながら、 「シメキリさんはかわいいねー」  と言い、猫缶を盛った器《うつわ》を持ちつつ、 「シメキリさんおいでー」  と声をかける。  いまやすっかり、シメキリさんは、わたしにとって、ラブリーきわまりないものの代名詞となった。猫バカロードを歩み出した者の例に漏《も》れず、シメキリさんがいない生活などもはやわたしには考えられない。VIVA、シメキリ! 神さま、わたしにシメキリを与えてくれてありがとう。もうシメキリは怖くないよ!  ついに、わたしは、耐えがたい恐怖に打《う》ち克《か》ったのだ。  これが、現代魔法の六巻を書いているとき、わたしの身に起きた事件の顛末《てんまつ》である。いくら異常気象がつづいているからといって、二〇〇八年の夏が二〇〇九年の春までつづくとは当のわたしも思っていなかったが、シメキリがかわいすぎていつまでもそばに置いておきたかったのだからしかたない。ニコニコ動画のゲームプレイ動画を毎日見ていたらいつの間にか時間が経《た》っていたとかそういうことではけしてないので、そこんところ理解していただけるとありがたい。まこと、孔明の罠はあなどりがたい。はわわわ。  さて、ご存じのかたも多いと思うが、二〇〇九年の夏からアニメの放映がはじまることになった。コミカライズのときもそうだったのだが、自分の頭の中で無から発生し活字となったモノが、人様の頭の中を経由して別の物語となり世に発表され、五感を通してふたたびわたしの頭の中に入ってくるというのは、いわく説明しがたい奇妙な経験である。  そのとき、わたしは傍観者というか参加者のひとりで、わたしが考えた設定とかは、オリジナルというより、むしろ「wikipediaに最初に投稿された原稿」みたいな存在である気がするのである。  まー、なんか、うまく説明できない。  でもそこが楽しい。  最初の顔合わせで「カッコ良ければどうにでも好きにやってくれていっすよ」と言ったら、「良いというのは、原作を好きな人に喜ばれることもまた重要だと自分は考えている」と黒田監督が言ってくださったので、けっこうwktkしている。読者のみなさまも、わたしと一緒に是非《ぜひ》全裸待機していただければと思う。わたしと違って、アニメの人はシメキリ破らないしな!  桜咲く残暑厳しい折、ここに六巻を届けられたことをうれしく思う。関係者各位の超過労働、編集長を支えた大量の胃薬とわたしを支えた眠眠打破、QPコーワiに蒸気でアイマスク、かわいいにゃんこの寝顔等々によってこの話はできあがった。  この先の展開はこうしましょうみたいなことを、編集の人とはもう話していたりする。だが、次巻……の話は、また変なフラグをたててえらいことになったら困るのでやめておこう。おれはようやく登りはじめたばかりだからな。このはてしなく遠い現代魔法坂をよ。 [#地付き]桜坂 洋 [#PR(img/yg6f_0208-9.jpg)] [#PR(img/yg6f_0210-11.jpg)]